室戸岬と小豆島に建つ大阪旅行クラブの石碑
四国南東端、室戸岬(高知県室戸市)に建つ「日本八景 室戸岬」の石碑。
大阪旅行クラブの石碑
室戸岬は、独特の奇岩とアコウなどの亜熱帯性植物が織り成す景観で観光地となっている。
1927年(昭和2)、東京日日新聞と大阪毎日新聞の主催で「日本八景」が選定された。全国から選ばれた8か所の八景のうちのひとつが室戸岬であった。
石碑の側面には「大阪旅行クラブ建立」「昭和六年八月廿五日」とある。 大阪旅行クラブという団体が1931年(昭和6)に建てた石碑のようだ。
大阪旅行クラブの石碑は小豆島(香川県)の洞雲山にもある。洞雲山は小豆島八十八か所の1番札所であり、山上からの眺望がすぐれた場所でもある。
大阪探勝わらぢ会の活動
ところで大阪周辺では、1918年(大正7)時点で、大阪探勝わらぢ会、足軽会、アルカウ会といった旅行団体が複数存在していた*1。その多くは、定期的に日帰りのハイキングを楽しみ、折々に遠方への旅行に出かけるといった活動を行っていた。
旅行団体のはしりである大阪探勝わらぢ会は、1906年(明治39)6月に大阪・奈良府県境に近い千光寺(奈良県平群町)へのハイキングを皮切りに、ほぼ月1回のペースで関西圏に日帰りで出向いた。参加者は老若男女さまざまであった。
富士登山といった遠方への旅行も稀にあり、1910年(明治43)11月には小豆島の寒霞渓(かんかけい 香川県小豆島町)を475名で訪れている。寒霞渓登山の際、記念に石碑を建てたことが会の記録に残っており*2、そのことを裏付けるように現地でも石碑が確認できる。
その後も大阪探勝わらぢ会は、仙酔島(広島県福山市)、女木島(香川県高松市)、道後温泉(愛媛県松山市)など各地に石碑を建てている。寒霞渓での建立契機を参照すれば、いずれの石碑も旅行の記念と考えられる。
(仙酔島に建つ大阪探勝わらぢ会の石碑)
大阪旅行クラブとは
大阪旅行クラブとは、その名称や、昭和初期の名所・観光地への石碑建立といった事象から、大正から昭和初期にかけて大阪周辺に多数あった旅行団体のひとつとみられる。室戸岬や洞雲出山に残る石碑は、大阪探勝わらぢ会をまねて旅行先に建てたのだろうか。
多度津の蛸壺生産
かつて栗林公園(香川県高松市)で土産物として販売されていた大小の蛸壺。口縁部に黒い麻紐も巻かれている。
いずれも香川県多度津町(たどつちょう)東白方(ひがししらかた)の蛸壺生産者の手によるものだ。
多度津では1990年ころまで蛸壺を生産していた。
もともと宇多津(うたづ 香川県宇多津町)で蛸壺生産に関わっていた人物が多度津に移り住んで(明治末期〜大正期か)生産を続け、最盛期(戦後〜1960年代)には3軒を数えた。
現代的な家屋が建ち並ぶ住宅地の一角に、蛸壺を成形していた作業場の建物が残っている。
(作業場だった建物。左手の空閑地に窯があった)
建物の内部には粘土置き場と、成形作業のスペースがある。
粘土は、宇多津と同じく飯野土(香川県丸亀市吉岡・宇多津町津郷付近で採れる粘土)を使用していた。
土練機で練った粘土を専用の機械を用いて筒状にし、筒状粘土に円板状の底部を貼り付けた。
それを型に入れて電動ロクロで蛸壺の形に成形した。
電動ロクロは戦後に導入したという。
成形された粘土はしばらくの乾燥の後、窯での焼成を経て蛸壺となった。
基本的な生産工程は宇多津産とよく似るが、多度津では釉をかけない点は大きく異なる(宇多津では釉をかけるものもある)。
多度津産は素焼きの蛸壺なのである。
(建物内部には蛸壺成形作業時の痕跡がわずかに残る)
多度津の蛸壺は、高見島(たかみじま)、佐柳島(さなぎじま)、志々島(ししじま)、粟島(あわしま)など多度津に近い島嶼部や兵庫県西部を主な商圏としていた。
イイダコ用の小型の蛸壺は淡路島や香川県東部などに出していたという。
(多度津産の蛸壺)
蛸壺は海岸線のそばで生産されており、漁師は船で直接買い付けに来ていたという。
1965〜67年の埋め立てで周辺が陸地化すると、少し離れた多度津港などで蛸壺の受け渡しをするようになった。
そのころ1軒が廃業し、さらに10年後に1軒が撤退したことで1970年代には、多度津で蛸壺を生産しているのは1軒のみになってしまった。
(中央の道路から左側は1965〜67年の埋め立てで陸地化した。それ以前は道路の右側あたりが海岸線だった)
(多度津港)
最後に残った1軒では、栗林公園の讃岐民芸館からの依頼を受けて土産物としての蛸壺も生産していた。
漁業用のものより高めの温度で焼成し、水が漏れないよう内面に加工を施し、口縁部に麻紐を結ぶ。
手間はかかるが、漁業用の蛸壺に比べて2倍以上の値で卸していたという。
本来の用途ではない土産物としての蛸壺の需要が生じるのは、どういった背景によるのだろうか。
寒霞渓を訪れた旅行団体と登山記念の石碑
あらゆる方向の眺めがよい、という意味の四眺頂。小豆島・寒霞渓(かんかけい 香川県小豆島町)の登山道を登りきった場所は、そう呼ばれている。
大阪探勝わらじ会が建てた石碑
四眺頂はロープウェイが整備される以前の頂上で、今でも表ルートの登山道*1の一応の到達点になっている。
眺めがよい地点には東屋が整備され、その傍らに背の低い石碑が建つ。
石碑の表面は風化しているものの、刻まれた文字は「大阪探□わらじ会 登山記念」*2と読める。
上端部を円盤状に削り出し、上端面に方位を刻む形状は、女木島や道後温泉に大阪探勝わらぢ会が建てた石碑と共通する。この石碑も大阪探勝わらぢ(じ)会による蓋然性が高く、□は「勝」と推測できる。
なお、大阪探勝わらぢ会は1906年(明治39)ころに発足した大阪の地図出版社経営者主催の旅行団体である*3。
石碑の別の面には「明治四十三年十一月六日□□」)とあるため、大阪探勝わらぢ会は1910年(明治43)に寒霞渓を登り、その記念に石碑を建てたのだろう。
(大阪探勝わらぢ(じ)会が寒霞渓の四望頂に建てた石碑。上端面に「東西南北」を刻む)
表十二景・裏八景の定着
江戸時代から知られていた寒霞渓だが、明治期以降、ジャーナリストや地元有志などによる宣伝の効果もあって広く知られるようになった。
また、船舶や鉄道の交通機関の発達も伴って、寒霞渓は観光地として定着する。
小豆島・肥土山(ひとやま 香川県土庄町)の大森国松は、大正から昭和初期にかけて、寒霞渓を紹介するパンフレットを何刷か制作している。
1913年(大正2)にはモノクロで表十二景のみの紹介にとどまっていたが、1927年(昭和2)にはカラー刷で表十二景・裏八景が掲載されている。
江戸時代の寒霞渓は、表ルートを主な登山道とし、道沿いの名所の場所・名称も現在とは異なっていた。
おそらく、明治後期から1913年までの間に現在と同じかたちの表十二景が固定化され、1927年までには下山ルートとしての裏八景も浸透したのだろう。
(「小豆嶋神懸山真景図」1913年、大森国松発行。高松市歴史資料館蔵*4)
(「小豆嶋寒霞渓最新案内真図」1927年、大森国松発行)
近畿から訪れる観光客
明治後期以降、近畿の船舶会社は瀬戸内海の船旅を積極的に提案する。
たとえば、大阪商船はカラーのイラストや時刻表、案内文などを盛り込んだ寒霞渓のパンフレットを発行して誘客に努めている。
近畿からさほど離れていない小豆島という立地は、近畿の船舶会社にとってとりわけ魅力的に映ったのかもしれない。
(「寒霞渓」1927年(昭和2)大阪商船発行。上段:表面、下段:裏面)
(「寒霞渓」1932年(昭和7)大阪商船発行。上段:表面、下段:裏面)
明治〜昭和初期の寒霞渓を取り巻く状況を踏まえると、近畿の旅行団体である大阪探勝わらぢ会が寒霞渓を訪れるのは、ごく自然な流れだろう。
ただ、パンフレットなどが充実するであろう大正期以前の1910年に寒霞渓に足跡を残しているのは、観光客としてはやや早いように思える。
大阪探勝わらぢ会は、新たな観光地に積極的に足を運ぶ団体だったのかもしれない。
物語を届けるしごと » 100年以上も前に設置された小豆島寒霞渓の方位石「大阪探勝わらじ会」 Orientation stone at Kankakei Gorge
*1:現在の寒霞渓には、表・裏の2通りの登山道がある。
*2:□は判読できない文字。
*3:小川 功 2013「京都探勝会等に見る旅行愛好団体の生成と限界 地域・コミュニティが生み出した明治期の観光デザイナーたち」『彦根論叢』396
*4:以下、すべての資料は高松歴史資料館蔵。
江戸時代に描かれた寒霞渓の風景
晩秋、紅葉を求めて多くの人が訪れる小豆島の寒霞渓(かんかけい 香川県小豆島町)。
中腹からの頂上までの2本の登山道沿いには奇岩を中心とした名所が設定されており、それぞれ、表十二景、裏八景と呼ばれている。すなわち、表ルートに12か所、裏に8か所の名所があり、表裏の登山道を合わせると20か所になる。
寒霞渓の各所に存在する奇岩は少なくとも江戸時代から知られており、江戸時代末に編まれた「小豆嶋名所図会(しょうどしまめいしょずえ)」には「神翔山(かんかけやま)*1」として寒霞渓の奇岩が紹介されている。
その名称は、現在の表裏20景とは異なるものの、挿図と解説文を頼れば現状と照らし合わせることができる。
戛玉渓(かつぎょくけい)
「神懸山にのほる山路の左の傍にあり。俗に素麺流といふ。」
表十二景の入り口のそばには小さな川が流れており、「そうめん流し」と呼ばれている。ここが戛玉渓である。
図の左下には三勝亭とい屋根を持つ建物が描かれているが、これは現在の表第2景・紅雲亭にあたるのだろう。
(戛玉渓 「小豆嶋名所図会」*2
(上図の左下部分を拡大。右手の屋根の上に「三勝亭」の文字が見える)
(「そうめん流し」と呼ばれる渓流)
(紅雲亭)
矢筈嶽・鳥石
「矢筈」とは矢の末端にある弓弦を受ける部分のことである。挿図を見ると、岩の頂部にわずかな窪みがあり、ここを矢筈に見立てたのだろうか。
矢筈嶽は現在の表第3景・錦屏風である。
矢筈嶽の左側にはある岩は鳥石と記されている。
鳥石は表十二景には入っていないが、現状でも同形状の岩を確認できる。
(左上から鳥石、矢筈嶽)
(左上がかつての鳥石、中央が錦屏風)
煙霞洞
「山腹に洞穴ありて、其形霞のたなびくが如し。」
岩石生成時の堆積単位の層を、たなびく霞に見立てたのだろう。
現在は表第8景・層雲壇と呼ばれている。
(煙霞洞)
(層雲壇)
仙掌峯・大洞嶽・座禅台
「仙掌峯」は「其形掌のごとき岩の峯にして、二峯あり」と記されている。挿絵の左にある二つの特徴的な峰を、仙人の両方の手のひらとしたのだろう。
現在は、二つの峰のうち、より高い右側のみを表10景「烏帽子岩」としている。
「大洞嶽」「座禅台」は表十二景から外れているが、どの場所を指すかはおおよそ確認できる。
なお、「座禮台」は「此座禅台より眺望すこふる美観なり」とあることから眺望地点のひとつだったことがわかる。
(左から「仙掌峯」「大洞嶽」「座禅台」)
(中央やや左が烏帽子岩、奥に見える峰がかつての大洞嶽か)
江戸時代の登山道は現在の表ルート
「小豆嶋名所図会」に登場するのは、表十二景のいずれかか、その周辺である。
裏八景の第5景・石門が紹介されてはいるが、「神懸山」の一部としてではない。
(石門)
「小豆嶋名所図会」の記載は、当時の寒霞渓の主要な登山道が現在の表ルートであったことを示している。
ただ、紹介されている各所が表十二景とは完全に一致せず、同一地点でも名称は異なる。現在の表十二景が定まるには、大正期(1920年ころ)を待たなければならない。
物語を届けるしごと » 江戸の観光案内図をみながら小豆島・寒霞渓(かんかけい)を歩く Walk in Kankakei gorge of Shodoshima island
旅の目的地・道後温泉に建てた石碑
湧き出る湯が古くから知られ、年間100万人以上が訪れる観光地*1、道後温泉(愛媛県松山市)。
今から100年前の大正期にも道後温泉は旅の目的地だった。そのことを示す石碑が道後公園に残されている。
(道後温泉本館)
1888年(明治21)に愛媛県立道後公園として整備され、1953〜87年(昭和28〜62)には県立道後動物園も置かれていた。
中世に築かれた湯築城(ゆづきじょう)の跡でもあり、公園を取り囲む堀や土塁、見晴らしのよい小高い丘陵は湯築城跡の遺構である。
(道後公園)
(公園中央の丘陵には展望台が設置されている)
湯釜薬師と大阪探勝わらぢ会の石碑
道後公園の北端にある覆屋の中には、高さ、直径ともに150cmあまりの円筒形の石造物が据えられている。
湯釜薬師と呼ばれるこの石造物は、道後温泉の湯口にあったもので、1894年(明治27)まで使用されていたという。
(湯釜薬師)
湯釜薬師に向かって左手前には小さな角柱の石碑がひっそりと建つ。
石碑には「湯釜薬師」「大正八年四月九日 大阪探勝わらぢ会」と刻まれている。
大阪探勝わらぢ会は1906年(明治39)ころに発足した大阪の地図出版社経営者主催の旅行団体で*2、女木島(めぎじま 香川県高松市)にも石碑を建てている。
(大阪探勝わらぢ会の石碑)
旅の目的地としての道後温泉
各地に石碑を設置した大阪探勝わらぢ会にとって、石碑とは到達すべき目的地のモニュメントだったのかもしれない。
とすれば、石碑を建てた大正8年(1919)には湯釜薬師=道後温泉が旅の目的地になっていたといえる。
船舶を利用した瀬戸内海の旅行が盛んになる明治後期以降、道後温泉も観光地として認識されており、道後温泉が大阪探勝わらぢ会の旅行先のひとつとなっていても不思議ではない。
(大阪・神戸発、道後温泉を経由する瀬戸内海周遊旅行の案内。昭和初期か[高松市歴史資料館蔵])
なお、円形に加工された石碑の上端には「東西南北」の方位がある。
地図を見ながら、または頭の中で地図を思い浮かべながら旅行をするようになったことを示唆するのだろうか。
現在でも観光地の看板などに方位が示されているケースはまま見受けられるが、それはおそらく明治〜大正期の石碑にルーツを求められる。
(石碑の天井部分に刻まれた「東西南北」)
時代を超えた出来事が交わる大野原の秋祭り
舞い上がる砂ぼこりのなか、ダンジリ(山車)が坂道を駆け上がる。頂上に達すると、集まった大勢の観客の拍手が起こる。
(ダンジリ)
大野原(おおのはら 香川県観音寺市)の秋祭りには2台のダンジリと14台のチョウサが出る。
ダンジリとは破風屋根を持ち、下部に車輪が着く山車である。胴部に刺繍の入った幕を周し、背面には2基の太鼓を備える。2台のダンジリは八兵と下杉林にある。八兵のダンジリは「山車」、下杉林のものは「花車」と表記される*1。
チョウサは太鼓台と呼ばれる山車で、2本の長いかき棒を介して数十人で支えられる。
(平塚の周囲に待機するチョウサ)
大野原八幡神社の御旅所である平塚(ひらづか)では、ダンジリ1台とチョウサ1台が順に頂上に登る。秋祭りの盛り上がる場面のひとつである。
(平塚に登る八兵のダンジリ)
(平塚頂上で円陣を組む)
(ダンジリが降りてくると、チョウサが平塚に登る)
ダンジリには口説(くどき)があり、八兵は毎年歌詞が変わる。一方、下杉林の口説はほぼ毎年「平田与一左衛門正重」であるという。その内容は、近江出身の平田与一左衛門正重が、池を築き、大野原を拓いたというものである。
(下杉林のダンジリ)
(「平田与一左衛門正重」の口説。ダンジリの前面に歌詞を掲げる)
平田与一左衛門は、1645年(正保元)、荒野だった大野原の開墾に着手する。その際、精神的な拠りどころとして大野原八幡神社の社殿を建てた*2。
大野原八幡神社の本殿は、6世紀後葉に築かれた椀貸塚古墳の前面にある。御旅所の平塚も7世紀前半構築の平塚古墳である。
大野原に入植した平田与一左衛門と一族にとって、約1000年間この地にあり続けた巨大な古墳の墳丘は、象徴的な意味を与えるにふさわしい構造物だったのだろう。
(開口する椀貸塚古墳の横穴式石室)
(御旅所となっている平塚古墳)
21世紀の現在、秋祭りには7世紀の平塚古墳にダンジリとチョウサが登り、ダンジリの口説には17世紀の出来事が盛り込まれる。
年に一度、時代を超えた出来事が交わるのが大野原の秋祭りなのである。
小手島の蛸壺漁
人口39人*1の島に5,000個を超える蛸壺。
蛸壺漁が解禁される5月になると小手島(おてしま・香川県丸亀市)の港には多くの蛸壺が並ぶ。
そのほとんどは船具屋から仕入れる樹脂製の蛸壺である。
(所有者がわかるようにカラーリングが施された蛸壺)
それでも島の中には陶器製の蛸壺も積み重ねられている。割れているものも多く、現在は漁に使われていない。
小手島では陶器製の蛸壺を多度津(たどつ・香川県多度津町)から購入していた。多度津で蛸壺が生産されなくなった後*2、宇多津(うたづ・香川県宇多津町)の蛸壺を使っていたこともあったという。
陶器の蛸壺は周囲をセメントで固められている。二見(ふたみ・兵庫県明石市)でもみられる陶器が割れないようにする工夫だろう。
(セメントで固められた陶器の蛸壺。多度津産という)
(蛸壺を結びつけた縄を沈めるためのおもり。近隣の広島で採れる青木石か)
また、数は少ないがアカニシの殻の蛸壺もある。イイダコ漁に用いられる蛸壺で、同様の漁法は幕末のシーボルトの記録にも登場する。
現在の小手島では、アカニシ殻でイイダコを獲るのは1軒のみという。
(アカニシの殻をイイダコ用の蛸壺に)
(アカニシの殻をイイダコ用の蛸壺に。セメントで固められているものもある)
小手島ではタコ漁に加えてイカナゴ漁なども盛んに行われている。漁業の神・エビスを祀るほこら、プールに描かれた漁の絵などからは、島と漁の結びつきの強さが垣間見える。
(港には漁業の神・エビスが祀られる)
(小中学校のプールに描かれた漁。漁船の表現にはリアリティがある)