小豆島の水車と製粉、素麺生産
小豆島最大の川、伝法川(でんぽうがわ)とその支流、殿川(とのがわ)沿いには錆に覆われた大きな鉄の輪があちこちに残る。
年月を経た輪は、昭和30年代まで(1960年前後)この地で活躍した水車の残骸だ。
水車は川から引いた水の流れで回っていた。水車のそばには小屋があり、水車の回転による動力は小屋の中に設置された重い石臼を回した。この石臼で小麦をひくと粉になった。小麦粉である。
水車は製粉のための動力装置だったのである。
(殿川)
伝法川、殿川に面した肥土山(ひとやま)、中山の両地域には明治期(1890年ころ)から水車が設置され、最大60基近い水車があったという(峠の会1988)。
(奥に殿川が流れる)
(石組みの用水路と水車)
大正4年(1915)の小豆島の町村別小麦粉生産量をみると、池田村(現・香川県小豆島町)と大鐸(おおぬで)村(現・香川県土庄町)の生産量が突出している。池田村には多くの水車を有していた中山が含まれ、大鐸村にも同じく肥土山が含まれる。
つまり、伝法川と殿川沿いの製粉業者が、小豆島産小麦粉の大半を占めていたのである。
(1921年発行の『小豆郡誌』掲載データをもとに作成)
生産された小麦粉は、主に島内の素麺業者のもとへ運ばれ、素麺の原料となった。小豆島は江戸時代以来素麺の産地として知られており、大正期には山陽地方や九州を主な販路としていた。
(大正期の素麺生産 [写真:真砂喜之助製麺所])
殿川を上流にさかのぼると水天宮という神社がある。名称からみて水の神を祀っているようだ。
(水天宮)
水天宮の境内には石碑があり、大正6年(1917)に社殿を建て替えた際に寄付した人の名前が刻まれている。名前の上には「水車連中」とあり、水車をもつ人たち、すなわち製粉業者によって寄付されたことがわかる。
製粉にかかわる人たちは、川を流れる水を重要視し、水の神への信仰も篤かったのだろう。
(上に「水車連中」、下には水車連中の名前)
錆びた鉄の輪と化した水車や苔むした石碑は、かつて伝法川や殿川を流れる水が製粉や素麺生産を支えていたことを、かろうじて伝えてきた「証人」なのかもしれない。
峠の会1988『讃岐の水車』
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宇多津の蛸壺生産
回転する粘土から次々に壺が生み出されていく。これらはやがて蛸壺となって遠く離れた漁師の手に渡り、海の中で活躍することになる。
香川のほぼ中央、宇多津町の鍋谷(なべや)では蛸壺をつくっていた。
祖父の代からこの地で蛸壺屋を営んでいたという藤原さんは、10代のころから蛸壺生産に携わっていた。
藤原さんのつくる蛸壺は陶器製で、材料となる粘土を調達するところから作業が始まる。粘土は近くの吉岡(香川県丸亀市)のもの。瓦生産で有名な菊間(きくま 愛媛県今治市)からも吉岡の粘土を買いに来ていたという。
仕入れた粘土は作業場内の決まった場所にストックしておく。必要に応じて粘土を土練機で練る。
土練機を経た粘土は直方体で、この粘土を専用の機械で筒状にする。
筒状の粘土に円盤状に整えた粘土を貼り付ける。この部分が蛸壺の底になる。
粘土を型に入れて、轆轤(ろくろ)を用いて成形する。
蛸壺の形になった粘土をしばらく乾燥させる。
乾燥後、茶色や黒色の釉(うわぐすり)をかけ、窯に詰めて焼く。釉の色は発注側の漁師の好みに合わせている。
焼き上がると蛸壺が完成する。
藤原さんが焼く蛸壺は、多い時で年間100,000個にもなったという。
近年、プラスチック製の蛸壺が増えてきたが、陶器製の蛸壺を好む漁師は瀬戸内でわずかに残る蛸壺生産者を頼ってきた。なかでも鍋谷の藤原さんが受ける発注は広い範囲に及んでいた。その結果、野忽那島(のぐつなじま)や津和地島(つわじじま)など瀬戸内の西部にまで藤原さんの手がける宇多津産蛸壺が流通することになった。
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青島の井戸
青島(あおしま 愛媛県大洲市)の港に降り立つと、何十匹ものネコの出迎えを受ける。
ネコを目で追いかけていると、定期船から桟橋を伝ってホースが伸びていることに気づく。
くすんだ灰色のこのホース、直径10cm程度と頼りなさそうに見えるが、島の飲料水を運ぶ重要な役割を担っている。
定期船は人や荷物だけでなく、最大6tの飲料水も運ぶ。
飲料水は定期船からホースで港の貯水槽に送られ、貯水槽からは水道で各家庭へと行きわたる。
(桟橋を伝うホース)
面積0.5km2と決して広くない青島では、他の島嶼部と同じく飲料水の確保に腐心してきた。
1978年(昭和53)、逆浸透脱塩装置が整備され(首藤修史1985)、この機器で海水を淡水化して飲料水としていたが、数年で使用できなくなったらしい。
それまで青島では水は井戸に頼っていた。
共同の井戸がいくつかあり、大きな家では屋敷内にも井戸を設けていたという。
ところが、大半の井戸水は塩分を含んでおり、飲料水として使えるのは「村井戸」のみであった(首藤修史1985)。
愛媛大学の教員を務め、愛媛県内の写真を撮り続けた村上節太郎(※)は1946年(昭和21)に青島の井戸を撮影している(愛媛県歴史文化博物館編2004)。
写真を見ると、井戸は建て込んだ家々の間の開けた空間、その中央にある。
また、2人の大人の女性と1人の少女が釣瓶をそばに立っている。
水を汲むために女性たちが集まっていることから、写真の井戸が「村井戸」と思われる。
写真にわずかに写りこんだ神社の燈籠と、「村井戸」が小学校の下にあったという記述を手がかりに「村井戸」を探し歩くと、青島神社の参道ふもとにある2基の井戸跡にたどりつく。
2基の井戸は大きさに差があり、金網に囲まれた井戸がより大きい。
こちらが人々が共同で利用した「村井戸」で、小さな井戸は屋敷内の井戸だろうか。
(村上が撮影した井戸の跡。「村井戸」か)
(もう一方の井戸の跡。屋敷内の井戸か)
飲料水の供給が現在のようなシステムになる前、 この井戸は貴重な水源であり、水を求める人々が集まり会話を交わすオープンな場でもあったのだろう。
使われなくなった井戸の周りのスペースは井戸端会議の名残のようにも思える。
(青島の集落)
※「明治42年に現在の内子町平岡に生まれた村上節太郎は、昭和32年に愛媛大学教授となり、同35年に「日本柑橘栽培地域の研究」により理学博士の学位を受けるなど、柑橘類研究の第一人者として知られる。また、カメラをこよなく愛し、大正11年に県立大洲中学校に入学、以来平成7年に亡くなるまで、膨大な写真を撮影した。その数はフィルムだけでも推定20万枚、プリントも含めると36万枚にも及ぶ。」(村上節太郎写真1 膨大に残るフィルム )
愛媛県歴史文化博物館編2004『村上節太郎がとらえた昭和愛媛』
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シーボルトが訪れた与島のドック
幕末に日本に滞在したドイツ人、シーボルトは瀬戸内海の航行途中に与島(よしま 現・坂出市)を訪れた。
著書『日本』には、与島に船を修理するドックがあったと記されている。
「ドクトル・ビュルガーと私は一艘の舟で与島に渡り、塩飽というたいへん好ましい小さな村をみつける。
すべて瓦葺きの家々の立派なたたずまいは、この村が多少とも裕福であることを物語っている。
ここは船を修理するのに大変都合のよいところで、下関と大坂の間ではいちばん地の利をえている。
すなわち6フィートの厚さの花崗岩でできている石垣で海岸の広い場所を海から遮断しているので、潮が満ちている時には非常に大きい船でも特別な入口を通ってはいってくるが、引き潮になるとすっかり水が引いて、船を詳しく観察で検査することができる。
人びとはちょうどたくさんの舟の艤装に従事していた。
そのうち幾艘かの船の周りで藁を燃やし、その火で船をフナクイムシの害から護ろうとしていた。」(斉藤信 訳1978)
当時のドックはどこにあったのだろうか。
「6フィートの厚さの花崗岩でできている石垣」とは、幅約1.8mの花崗岩の防波堤のことだろう。
確認できるもっとも古い1960年の空中写真を見ると、3か所に防波堤がある。
この3か所が候補になる。
(国土地理院 空中写真 1960年撮影)
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3か所のうち、東にある防波堤付近は「タデバ」と呼ばれている。
たで場とは、船底を火であぶり、船のメンテナンスを行うドックを指す言葉で、地名はたで場に由来する。
(タデバ)
周辺で話をうかがうと、確かに以前は防波堤に囲まれた場所がたで場であったという。
満潮時に船が入ってきて砂浜に乗り上げる。
干潮になると船底に丸太を敷き、下から笹を燃やしてフナクイムシを退治し、コールタールを塗るなどしていた。
しかし、それ以前の昭和初期には防波堤の中で魚を養殖しており、それがうまくいかず、たで場に替わったという。
防波堤が養殖の際につくられたのであれば、タデバを幕末のドックとするのは難しい。
残る2か所の防波堤は浦城(うらじょう)と穴部(あなべ)にある。
いずれも江戸時代から続く集落で、シーボルトが「すべて瓦葺きの家々の立派なたたずまい」と評したのは、隣り合う両集落を指すのだろう。
どちらかといえば、神社や大きな寺院のある浦城が当時の中心集落とみられる。
(穴部)
(浦城)
現在の浦城付近は与島港として大きな防波堤が築かれているが、1960年の空中写真では整備前の港の様子がよくわかる。
現在に比べると防波堤に囲まれた面積はかなり狭いが、それでも穴部よりは広い。
シーボルトが訪れたドックは、浦城の古い防波堤に囲まれた場所だったと考えたい。
(浦城の防波堤)
浦城の防波堤を観察すると、少なくとも3回の整備が行われた形跡がある。
最上段はコンクリート、その下は花崗岩の切石で築かれ、最下段は花崗岩の割石による乱積である。
一番下の割石がもっとも古い時期に築かれた防波堤で、切石、コンクリートの順に整備が繰り返されてきたのだろう。
香川県内の防波堤の構築方法からみれば(香川県教育委員会編2005)、割石の乱積は明治以前にさかのぼる可能性もある。
構築時期によっては、シーボルトが訪れたドックの痕跡になるかもしれない。
小豆島のトンド
高さ数メートルにもなる小豆島のトンド。
トンドは松や竹、バベ(ウバメガシ)などを組んだもので、1月中旬の早朝、正月に飾ったしめ飾りなどととも炎に包まれる。
かつての小豆島では、トンドを男の子の行事として位置づけていた。
男の子だけで山に入って松や竹を切って運び出し、トンドを組み上げ、正月飾りを集めていたという。
今でも、子どもたちが前日の晩から寝泊まりし、翌早朝に集落を回りながらトンドの始まりを知らせる地域もある。
少なくはなったが、小豆島のいくつかの地域では毎年のトンドを続けており、同じ島内でも地域によってトンドの形は異なる。
(小豆島でトンドをする地域 *1 )
(小豆島 西村)
(小豆島 安田)
(小豆島 坂手)
(小豆島 田浦)
(小豆島 福田)
(小豆島 吉田岡)
(小豆島 吉田浜)
(小豆島 大部)
(小豆島 田井)
(小豆島 北山)
現在、香川県内で大きな構造物をつくってトンドを行うのは小豆島のみである。
今では見られないが、かつては本島(ほんじま 丸亀市)や志々島(ししじま 三豊市)などの島嶼部でも同様のトンドがあった。
対して香川県の四国本島側では、小豆島のようなトンドをしないうえ、かつて行われた形跡も確認できない。
神社の境内などで正月飾りを焼く程度である。
全国的にみれば、ドンドや佐義長(さぎちょう)などと呼んで、背丈のある構造物を焼く地域は多い。
瀬戸内でも大きな円錐形のトンドは愛媛県の島嶼部や広島県の沿岸部などにあり、神戸市内でもつくられていた。
(大島[新居浜市])
トンドという視点でみれば、小豆島をはじめとする島嶼部は、香川県の四国本島側よりも瀬戸内の周辺地域に近いのかもしれない。
<小豆島のトンド追記 2016年1月10日>
(小豆島 苗羽 2016年)
(小豆島 苗羽 2016年)
(小豆島 苗羽 2016年)
(小豆島 橘 2016年)
(小豆島 北山 2016年)
(小豆島 北山 2016年)
(小豆島 大部 2016年)
(小豆島 大部 2016年)
(小豆島 大部 2016年)
(小豆島 大部 2016年)
(小豆島 田井 2016年)
(小豆島 田井 2016年)
(小豆島 田井 2016年)
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津和地島の蛸壺漁
「最初はこの壺で本当にタコが入るんかどうか心配しよったけどな」
津和地島(つわじじま)の漁師、鴻池さんは45年前を述懐する。
津和地島では主に安芸津(あきつ)から蛸壺を仕入れていたが*1、1967〜69年ころ、風早からの調達が難しくなり鴻池さんは別の仕入先を探すことになった。
それまで使っていた蛸壺を持って、当時蛸壺をつくっていた多度津(たどつ)へ向かうが、目的とする人に会えなかった。
仕方なく、噂に聞いていた宇多津(うたづ)へと足を伸ばし、蛸壺を製作している藤原さんをたずねた。
安芸津の蛸壺は外面だけに釉(うわぐすり)がかかっており、鴻池さんたちは安芸津産と同じような蛸壺を藤原さんに求めたが、それは叶わなかった。
釉を外面にだけ塗るのは手間がかかるからだ。
結局、蛸壺を釉に沈めるだけでできる、内外面ともに釉のかかった蛸壺を購入することになった。
鴻池さんは内側に釉のある蛸壺にタコが入るかどうか不安だった。
ところが、実際に使ってみると、漁に支障はないうえ蛸壺の内外面にカキ殻が付きにくく、掃除をあまりしなくてもいいというメリットもあった。
それからは津和地島の他の漁師も鍋谷の蛸壺を買うようになり、島の漁協が取りまとめて発注、購入した。
当初は渡海船で宇多津まで出かけて蛸壺を買っていた。夕方島を出て、翌朝宇多津に着いて港で蛸壺を積み込み、また島に戻る、という具合である。
しばらくして鍋谷からトラックで蛸壺が運ばれるようになり、船で宇多津にまで出向くことはなくなった。
また、近くにある二神島(ふたがみじま)で蛸壺の仕入れが難しくなった際、鴻池さんたちの紹介によって宇多津蛸壺の使用が二神島にも広がることとなった。
津和地島のタコの漁期は11月中旬から9月中旬までだ。
島の前面に広がる洲(浅瀬)はイカナゴなどの漁場であるため、蛸壺漁の漁場は島の裏側になる。
タコが豊富で蛸壺漁の漁師が多くいた10年ころ前までは、毎年の漁場をくじ引きで決めた。
ある人は山口県境付近がもっとも多く獲れたという。
津和地島では1本のロープに200個くらいの蛸壺を付けて何本ものロープを沈める。
プラスチックの蛸壺もあるが、津和地島の漁師は陶器の蛸壺を使う。
漁場の海底が岩場の津和地島では、陶器のほうが海底で安定するからだという。
釉がカキ殻の付着を防ぐためか、メンテナンスが容易というのも陶器製を使う理由になっている。
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野忽那島の蛸壺漁
「僕は陶器を使うことが多かったんで。プラスチックはセメントを入れんと使えんのですよ。プラスチックはフジツボがついても掃除もしにくいんですよ。」
蛸壺漁に使う蛸壺には陶器のものとプラスチック製のものがある。
野忽那島(のぐつなじま)で蛸壺漁に携わる尾崎さんは、主に陶器の蛸壺を使っている。
慣れている点に加えて、プラスチック製に比べて陶器製の蛸壺のほうがメンテナンスがしやすいというのがその理由だ。また、値段も陶器のほうが安い。
尾崎さんの蛸壺漁は、毎年11月半ばから翌年9月末までが漁期だ。
1本のロープに陶器製やプラスチック製の蛸壺、約130個を付けて海に沈める。
そのロープを何本も沈めるから、漁で使う蛸壺は最盛期2000個にもなるという。
タコが獲れるときには2日後に、あまり獲れないときには1か月ほどしてからロープを引き上げる。
すると蛸壺の中にタコが入っているという訳だ。
ただし、5年ほど前から忽那諸島周辺ではタコが激減しており、最近では、蛸壺のロープ1本に対して獲れるタコが2~3匹ということもあるという。
(宇多津の蛸壺〔左〕と安芸津の蛸壺〔中・右〕)
漁師3代目の尾崎さんが蛸壺漁を始めてから20年以上になる。
尾崎さんが漁を始めるころ、陶器の蛸壺を宇多津(うたづ)から購入した。
それまでは安芸津(あきつ)産の蛸壺を使っていたが、何らかの理由で仕入れることが難しくなった。
そこで、釣島(つるしま)の漁師に紹介してもらい、宇多津の蛸壺を使うようになったという。
プラスチック製の蛸壺は、島周辺の海底が岩場で漁をする人が使っている。陶器だと割れてしまうからだ。
尾崎さんはプラスチック製蛸壺も使ってはいるが、海底が砂地の沖合を漁場とするため、特にプラスチック製にこだわる必要はない。
冒頭の理由もあって、主に用いるのは陶器製の蛸壺となっている。
(野忽那島)
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