寒霞渓を訪れた旅行団体と登山記念の石碑

あらゆる方向の眺めがよい、という意味の四眺頂。小豆島・寒霞渓(かんかけい 香川県小豆島町)の登山道を登りきった場所は、そう呼ばれている。

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大阪探勝わらじ会が建てた石碑

四眺頂はロープウェイが整備される以前の頂上で、今でも表ルートの登山道*1の一応の到達点になっている。

眺めがよい地点には東屋が整備され、その傍らに背の低い石碑が建つ。

石碑の表面は風化しているものの、刻まれた文字は「大阪探□わらじ会 登山記念」*2と読める。

上端部を円盤状に削り出し、上端面に方位を刻む形状は、女木島道後温泉に大阪探勝わらぢ会が建てた石碑と共通する。この石碑も大阪探勝わらぢ(じ)会による蓋然性が高く、□は「勝」と推測できる。

なお、大阪探勝わらぢ会は1906年(明治39)ころに発足した大阪の地図出版社経営者主催の旅行団体である*3

石碑の別の面には「明治四十三年十一月六日□□」)とあるため、大阪探勝わらぢ会は1910年(明治43)に寒霞渓を登り、その記念に石碑を建てたのだろう。

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(大阪探勝わらぢ(じ)会が寒霞渓の四望頂に建てた石碑。上端面に「東西南北」を刻む)

 

表十二景・裏八景の定着

江戸時代から知られていた寒霞渓だが、明治期以降、ジャーナリストや地元有志などによる宣伝の効果もあって広く知られるようになった。

また、船舶や鉄道の交通機関の発達も伴って、寒霞渓は観光地として定着する。

 

小豆島・肥土山(ひとやま 香川県土庄町)の大森国松は、大正から昭和初期にかけて、寒霞渓を紹介するパンフレットを何刷か制作している。

1913年(大正2)にはモノクロで表十二景のみの紹介にとどまっていたが、1927年(昭和2)にはカラー刷で表十二景・裏八景が掲載されている。

江戸時代の寒霞渓は、表ルートを主な登山道とし、道沿いの名所の場所・名称も現在とは異なっていた。

おそらく、明治後期から1913年までの間に現在と同じかたちの表十二景が固定化され、1927年までには下山ルートとしての裏八景も浸透したのだろう。

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(「小豆嶋神懸山真景図」1913年、大森国松発行。高松市歴史資料館蔵*4

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(「小豆嶋寒霞渓最新案内真図」1927年、大森国松発行) 

 

近畿から訪れる観光客

明治後期以降、近畿の船舶会社は瀬戸内海の船旅を積極的に提案する。

たとえば、大阪商船はカラーのイラストや時刻表、案内文などを盛り込んだ寒霞渓のパンフレットを発行して誘客に努めている。

近畿からさほど離れていない小豆島という立地は、近畿の船舶会社にとってとりわけ魅力的に映ったのかもしれない。f:id:norimatsu4:20150813161828j:plain

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(「寒霞渓」1927年(昭和2)大阪商船発行。上段:表面、下段:裏面)

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(「寒霞渓」1932年(昭和7)大阪商船発行。上段:表面、下段:裏面) 

 

明治〜昭和初期の寒霞渓を取り巻く状況を踏まえると、近畿の旅行団体である大阪探勝わらぢ会が寒霞渓を訪れるのは、ごく自然な流れだろう。

ただ、パンフレットなどが充実するであろう大正期以前の1910年に寒霞渓に足跡を残しているのは、観光客としてはやや早いように思える。

大阪探勝わらぢ会は、新たな観光地に積極的に足を運ぶ団体だったのかもしれない。

物語を届けるしごと » 100年以上も前に設置された小豆島寒霞渓の方位石「大阪探勝わらじ会」 Orientation stone at Kankakei Gorge

*1:現在の寒霞渓には、表・裏の2通りの登山道がある。

*2:□は判読できない文字。

*3:小川 功 2013「京都探勝会等に見る旅行愛好団体の生成と限界 地域・コミュニティが生み出した明治期の観光デザイナーたち」『彦根論叢』396

*4:以下、すべての資料は高松歴史資料館蔵。