高見島の除虫菊栽培 2
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高見島(たかみじま)の段々畑に広がっていた除虫菊の白い花。その生産量はどれほどだったのか。
(除虫菊の花が咲く高見島 1950~60年代)
次のグラフは1954年(昭和29)の香川県における市町村別の収穫量を表している。
(『昭和31年版 香川県統計年鑑』から作成、橙-広島・手島・小手島、緑-小豆島の自治体)
この年、市町村単位では高見島村が最大の収穫量をあげていた。
高見島村は高見島だけの自治体のため、この3,500tという数字は高見島での収穫量とみていい。
複数の自治体で構成される小豆島(しょうどしま)は、それぞれを足せば6,660tとなるが、高見島の面積2.3平方kmに対して小豆島のそれは153.3平方kmと、面積の差が著しい。
1平方kmあたりの収穫量に換算すると、高見島1521t/平方km、小豆島43t/平方kmとなり、小面積の高見島でかなりの量の除虫菊を生産していたことがわかる。
当時、高見島では一面が除虫菊畑だったのだろう。
これほど盛んだった除虫菊の栽培だが、今の高見島ではほとんど目にすることはできない。いつごろまで生産されていたのだろうか。
次のグラフは香川県と、高見島が含まれる仲多度(なかたど)郡の作付面積推移を示している(※1)。
1960年(昭和35)以降については、仲多度郡の作付面積のうち高見島が一定量を占めているとみていいだろう(※2)。
(『香川県統計資料』から作成)
戦時中の1943年(昭和18)に香川県全体で451町(ha)あった除虫菊の栽培面積だが、戦後になって激減した。
1948年段階で除虫菊は輸出品として有望との認識があったらしく(※3)、それから生産量の回復に努めたのだろう。
香川県の作付面積は1970年まで右肩上がりの推移となっている。
仲多度郡も1954年から作付を増加させるが、ピークは1965年で香川県全体よりも早く下降が始まる。
高見島ではこのころに除虫菊ではない花卉(かき)の栽培が始まり、作物の転換がグラフの下降線に現れているのかもしれない。
しかし、その花卉栽培も今ではほとんど行われていない。
(山頂付近に残る除虫菊畑の跡)
「白雪に覆われたよう」と例えられた風景は、今から40年ほど前までしか見られなかったのだろう。
今は生い茂った木々の根本にかろうじて除虫菊畑の痕跡が残るのみである。
※1 高見島村は1956(昭和31)年に仲多度郡多度津町(たどつちょう)と合併し、以後の統計資料には郡市単位でしか数値が表記されていないため、仲多度郡でグラフを作成した。
※2 1954年で収穫量が記録された仲多度郡の自治体は高見島村と広島(ひろしま)村のみである。広島村は1956年(昭和33)に丸亀市に合併され、それ以降は仲多度郡から外れる。
※3 昭和25年発行の『香川県統計年鑑』には除虫菊について次のように記されている。「戦前海外に相当量輸出されていた除虫菊も終戦後化学薬品の進出により急激に衰微しその前途に一抹の不安をあたえたが、その後諸外国の需要増加により輸出品として稍々有望となって来つつある。供給面に於ける本県の状況は昔年北海道、広島、岡山、愛媛と共に全国屈指の生産県として知られ(略)ていたが、終戦と共にその生産が激減し昭和22年には最低に達した。其の後稍々回復し(略)今後貿易の好転に伴うこの方面の振興に期して待つべきものがある。」
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