讃岐の海を舞台にした悪魚退治伝説 2
(前回の記事)
(福江)
付近には悪魚を祀ったとされる「魚御堂(うおのみどう)」があった。
この堂は取り壊されたが、その代わりに「魚御堂趾碑」が建てられた。この石碑は現在の坂出高校の敷地内にある。
(坂出高校に建つ「魚御堂趾碑」)
倒れた兵士を救うため、讃留霊王と童子が水を汲みに向かった八十場(やそば 香川県坂出市西庄町)では水が湧き出ている。八十場は、江戸時代には湧水の名所で、ところてんやすいかを売る店が立つなど、旅人の休憩地にもなっていた。
(八十場の湧水)
伝説に登場する場所はいずれも海と海岸から近い場所で、現在の坂出市東部を中心とする。坂出市東部は江戸時代以前には阿野(あや)郡と呼ばれていた。
伝説が成立し、伝えられてきたのには理由があるはずだ。伝説に登場する場所からは、阿野郡の海岸近くにゆかりのある人々によって悪魚退治伝説(またはその祖型)が生み出され、多少の改変を経ながら後に伝えられたとみられる。
さらに踏み込めば、悪魚が流れ着き、讃留霊王が上陸する重要イベントの発生地である福江を基盤とした人々の伝説といえるかもしれない。
参考文献
乗松真也 2012「「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性」『香川県埋蔵文化財センター研究紀要』8
讃岐の海を舞台にした悪魚退治伝説 1
香川の海には、2つの小さな円錐形の島が並ぶ場所がある。
2つの島は大槌島(おおづちじま)と小槌島(こづちじま)、大槌島と小槌島を門に見立てて、両島の間を槌の門(つちのと)という。
槌の門には暴れる大きな魚「悪魚」が現れ、悪魚を「讃留霊王(さるれいおう)」が退治するという伝説がある。
(槌の門。左が大槌島、右が小槌島)
この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝説」などと呼ばれ、中世から近世にかけての史料にしばしば登場する。以下、それらの史料 をもとに悪魚退治伝説を意訳する。
3世紀、四国の海に鰐のような姿をした大きな悪魚がいた。悪魚は船を飲み込み、人々を食べた。また、船が転覆するため諸国から都へ運ばれるはずの税が海の中へと消えていった。
天皇は兵士を派遣したものの、兵士たちはことごとく悪魚に食べられてしまった。
天皇が息子であるヤマトタケルに悪魚退治を命じたところ、ヤマトタケルは15歳になる自分の息子・霊公を推した。天皇はただちに霊公に悪魚退治を命じた。
悪魚は讃岐(現・香川県)の槌の門(つちのと)に現れ、船や積んでいた税を飲み込み、人々を食べた。霊公は軍船をつくって1,000人の兵士を集め、船を漕いで悪魚へと立ち向かうが、大口を開けた悪魚に飲み込まれてしまった。
兵士は悪魚の胎内で酔って倒れたが、霊公は胎内から火を焚いて悪魚を焼き殺し、剣を振るって肉を裂き、胎外へ脱出した。
(『金毘羅参詣名所図会』)
悪魚の死体は福江の浜へと流れ着いた。
そこへ1人の童子の姿をした横潮明神が現れ、瓶に入った水を霊公に手渡した。霊公がこの水を飲んでみるとあまりにも美味だったため、「この水はどこにあるのか」と尋ねると、横潮明神は「八十場(やそば)の水です」と答えた。霊公は「早く私をそこに連れて行って欲しい。そしてその水を兵士たちに飲ませ、元気にさせてやりたい」と言った。
霊公は八十場で水をくみ、悪魚の死体を破り、兵士に水を飲ませた。すると兵士達はすぐに目を覚ました。
以後、船は安全に航行できるようになった。
霊公は讃岐の国を治めることになり、兵士たちから讃留霊王と呼ばれた。
悪魚退治伝説に登場する場所は、海や海岸に集中する。
(讃岐の海を舞台にした悪魚退治伝説 2 に続く)
参考文献
乗松真也 2012「「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性」『香川県埋蔵文化財センター研究紀要』8
牟礼・庵治で使われていた石工用具
およそ80年前に撮影された道いっぱいの人でにぎわう写真。
場所は東讃電気軌道(現・高松琴平電気鉄道)八栗駅前、奥に見えるのは五剣山(香川県高松市)である。
五剣山周辺は良質な花崗岩・庵治石(あじいし)を産出し、地元の牟礼(むれ)・庵治では石の切り出し、加工が行われてきた。
現在、高松市石の民俗資料館では、大規模な機械化導入以前—1960年代まで使われた石工用具を展示している。
それぞれをじっくり観察すると、作業工程やその場に合わせた構造になっていることがよくわかる。
たとえば、入室してすぐ左手に展示されている「ハコグルマ」。
切り出した石などを運ぶ手押し車である。
箱型の荷台から把手、車輪にいたるまですべて木製で、車輪の接地面には細かな鋲が規則的にびっしりと配される。
おそらく、丁場(石切場)の悪路を走行するために鋲を打ったのだろう。
石工用具のほか、丁場や地元の日常を写した古い写真、方眼紙に描いた丁場の位置図なども並ぶ。
先端の尖った軍人墓や100種類もある灯籠の見本図は、牟礼・庵治で生産してきたものをうかがえて、深く読み込めば次に展開できそうな気配を感じる。
「牟礼・庵治の石工用具と手しごとの時代」
場所:高松市石の民俗資料館
期間:〜2015年3月29日
料金:200円
開館20周年記念収蔵品展「牟礼・庵治の石工用具と手しごとの時代」の御案内 | 高松市収蔵品情報システム
高知のカツオ漁はいつから?
古来、カツオは高知の名産である。
平安時代の百科事典「延喜式(えんぎしき)」(10世紀)には、各地から納める税の品目が列挙されており、土佐(高知)の項には「堅魚」の文字が見える。「堅魚」とはカツオのことである。
当時は各地の特産品も税の一部で、土佐といえばカツオ、だったのかもしれない。ちなみに、同じ土佐からの税には「鯖」(サバ)、「年魚」(アユ)なども記されており、1,000年後の現在、これらを高知の特産品と言われてもほとんど違和感はない。
「延喜式」以前になると高知とカツオを結びつける直接的な証拠が見当たらない。9世紀までの高知ではカツオを獲っていなかったのだろうか。
高知と同じく黒潮に面した和歌山では、古墳時代(5世紀)の磯間岩陰遺跡や西庄遺跡からカツオの骨やカツオ釣り用の釣針が出土しており、この時代にカツオを獲って食べていたことが確実である。
釣針は長さ6cm程度で、鹿の角を削って軸と鉤状の針をつくり出す。軸には魚や動物の皮などを巻きつけた痕跡があり、擬似針(ぎじばり)と推定されている。擬似針とは、本来魚が食べないものを餌とした釣針で、現在のカツオ釣り漁でも用いられる。
(イラスト:北川拓未さん)
再び平安時代の「延喜式」を開いて紀伊(和歌山)の項を見ると、いくつかの品目とともに「堅魚」が挙げられている。カツオは日本列島沖の太平洋を回遊するため、高知、和歌山といった沿岸各地でカツオが特産品だったのは理解しやすい。であれば、和歌山でカツオ漁が行われていた古墳時代や、その後の飛鳥時代(6~7世紀)に高知でもカツオを獲っている可能性は十分にある。
(イラスト:北川拓未さん)
高知の遺跡から鹿角製の精巧な擬似針が出土し、9世紀以前のカツオ漁の姿が明らかになる日は、そう遠くないように思う。
(四国食べる通信 | 食が届く情報誌 2014年5月号「1000年前のカツオ漁」を一部改変。)
安芸津の蛸壺生産
道路沿いに突如現れるレンガ積の構造物。ドーム状の天井をもつ部屋が階段状に10房連結し、側面には太い鉄管が通る。下から上まで20mはあるだろうか。
安芸津(あきつ 広島県東広島市)に所在するこの構造物は福原製陶の登り窯である。福原製陶は一度に6,000個入るというこの窯で蛸壺を焼いていた。
レンガは福原製陶製、組み上げたのも福原製陶、窯の修繕も福原製陶で行っていたという。内部の温度を1,300度に上げるために当初は薪を焚いていたが、昭和半ばから重油を燃料とした。太い鉄管は備蓄タンクから重油を運ぶためのものだ。
(木が生えている場所には煙突があった)
(鉄管を重油が通る)
(重油を備蓄するタンク)
(神棚が置かれた焚口)
3代目の福原さんによれば福原製陶の蛸壺生産は大正期に始まったという。そのころ、近隣に蛸壺を生産しているところが数か所あり、福原さんの祖父がそこで修行を終えて現在地に工房を設けた。
安芸津では「赤土」と呼ばれる粘土を採取することができる。この粘土を利用して、明治期以降、安芸津では蛸壺のほかに土管や瓦などのやきものを生産していた。
福原製陶でも保有している山から工房に粘土を運び、蛸壺の原料とした。その粘土をロクロを使って成形し、外面にのみハケで釉(うわぐすり)を塗って窯詰めした。
1980年ころ、成形に外型を導入したが、それ以前は型を使っていない。そのため、福原製陶の蛸壺の外面にはロクロ引きの跡が微妙な段差として残る。
(福原さんと福原製陶の蛸壺)
福原製陶の最盛期は1955年ころで、年間30万個を生産していた。
その当時、下蒲刈島・倉橋島(広島県呉市)、江田島(広島県江田島市)、三原(広島県三原市)、二神島・中島(愛媛県松山市)、大三島(愛媛県今治市)など芸予諸島周辺を中心に卸していた。熊本県や五島列島(長崎県)にまで運んだこともあった。
三原では鍋谷産の蛸壺と競合した。三原の漁師に内外面に釉薬のかかった鍋谷産を見せられ、「外側にも内側にも釉をかけてくれ」と言われたこともあったという。そもそも、鍋谷産蛸壺の釉の出発点は、それまで安芸津産を使っていた津和地島(愛媛県松山市)の漁師が鍋谷で釉のかかった蛸壺を注文したことにある。釉のかけ方の要求が、回り回って原因となった福原さんのもとに来たのは興味深い。
(プラスチック製と併用される福原製陶の陶器製蛸壺)
参考文献
広島県教育委員会編 1994『広島県の諸職―広島県諸職関係民俗文化財調査報告書―』
鬼が島となった女木島と鷲ヶ峰貝塚の発見
鮮やかなブルーの海を背景に、起伏のある島が描かれる。山頂にはぴんと張った旗が誇らしげに立つ。島にいる鬼や子供はどこかコミカルだ。「鬼ヶ島」と題されたこのフライヤーは1937年(昭和12)に大阪商船(※)が発行したもの。旗に入っているのは大阪商船のロゴである。
(上:表面 下:裏面 高松市歴史資料館蔵)
香川県内の小学校教員であった橋本仙太郎は1930年(昭和5)、新聞「四国民報」夕刊に記事を連載した。タイトルは「童話「桃太郎」の発祥地は讃岐の鬼無」である。この連載記事で橋本は、地名と桃太郎の内容を関連付けて鬼無(きなし 現・高松市鬼無町)とその周辺を桃太郎の舞台と唱えた。
そして鬼が島は女木島だと述べた。女木島の鷲ヶ峰(わしがみね)山頂には人工の洞窟があり、橋本はこの洞窟を鬼が立てこもった城と見立てたのである。
(橋本仙太郎)
(女木島の鷲ヶ峰)
新聞発表の翌年には「日本一桃太郎発祥地鬼無と鬼ヶ島」というパンフレットを全国に配布したらしい。鬼が島となった女木島は一躍観光地となり、多くの人が島を訪れるようになった。
(昭和初期の絵はがき 上:女木島の洞窟 下:高松港から望む女木島 高松市歴史資料館蔵)
西日本の航路を多く抱えていた大阪商船は関西圏の人たちを女木島への旅行に駆り立てた。旅行ブームでもあった昭和初期のフライヤーには、女木島を大きく宣伝するものや、大阪・神戸港発着で道後温泉(愛媛県松山市)や宮島(広島県廿日市市)と併せて女木島を訪ねるプランを掲載するものがある。瀬戸内海の船旅で訪れやすい女木島は大阪商船にとって絶好の目的地のひとつだったのだろう。
(1938年のフライヤー 女木島と本島[香川県丸亀市]を巡る旅程 上:表面 下:裏面 高松市歴史資料館蔵)
(昭和初期のフライヤー 瀬戸内海周遊コースに女木島が組み込まれている 高松市歴史資料館蔵)
「鬼ヶ島大洞窟」として現在も入洞可能な洞窟の入口そばには、小さな石碑が建っている。
石碑には「桃太郎古蹟 鬼ヶ島大洞窟」「昭和六年十月建立 大阪探勝わらぢ会」とある。大阪探勝わらぢ会は1906年(明治39)ころに発足した大阪の地図出版社経営者主催の旅行団体で、同様の石碑を道後温泉や鞆(広島県福山市)などに建てている(小川 功2013)。いずれも会で訪れた観光地と思われ、女木島のもそのひとつということになる。
大阪商船のフライヤーも合わせて考えると、関西では女木島が観光地として認識されていたことがわかる。
(洞窟)
(大阪探勝わらぢ会の石碑)
鬼が島としての観光地化にあたり、1931~32年には女木島に鬼ヶ島遊園地株式会社が設立された。同社は展望台などを整備、温泉旅館の経営なども視野に入れていたようだ。
1931年ころ、展望台整備に際して鷲ヶ峰山頂では弥生時代中期後半(紀元前1世紀)の遺跡・鷲ヶ峰貝塚が発見された。貝殻や弥生土器、石器と推測されるサヌカイトが出土した鷲ヶ峰貝塚は標高216mの眺望にすぐれた場所にある(新海 功1935)。
弥生時代中期後半の瀬戸内海沿岸では、鷲ヶ峰貝塚同様、山頂付近に位置する遺跡がいくつもある。これらの遺跡は1950年代以降、「高地性集落」と呼ばれて議論され、鷲ヶ峰貝塚もその一端を担った(小野忠熈編1979)。
橋本が取り組んだ桃太郎と鬼が島の研究は、女木島の観光開発を進め、結果的に弥生時代研究の資料を提供することになったのである。
(昭和初期の絵はがきになった鷲ヶ峰貝塚 高松市歴史資料館蔵)
(鷲ヶ峰山頂からの眺め)
※ 大阪商船の当時の状況は、橋爪紳也(2014)による。
小川 功 2013「京都探勝会等に見る旅行愛好団体の生成と限界 地域・コミュニティが生み出した明治期の観光デザイナーたち」『彦根論叢』396
小野忠熈編 1979『高地性集落跡の研究』学生社
新海 功 1935「讃岐国女木島鷲ヶ峰貝塚小報」『人類学雑誌』48-1
橋爪紳也 2014『瀬戸内海モダニズム周遊』芸術新聞社
二見で使われる宇多津産蛸壺
幕末に港湾施設が整備され、それを顕彰する「二見浦築港記念碑」が建っている。
蛸壺漁が盛んな地らしく、港では数多くの蛸壺を見かけることができる。
プラスチック製のもの、塩化ビニル管を加工したもの。
陶器の蛸壺は宇多津(うたづ 香川県宇多津町)の藤原たこつぼ製造所のものだ。赤い釉薬の蛸壺がほとんどで素焼きの蛸壺は少量ある。
二見にほど近い明石市西部の沿岸地域、八木、江井島(えいがしま)、魚住(うおずみ)なども陶器製蛸壺の産地で、1963年(昭和38)ころまでは7軒が操業していたが*1、今ではもう見られない。
1988年の記録によれば、当時、近辺で蛸壺を生産していたのは八木、江井島にそれぞれ1軒ずつしか残っておらず、「当地のタコツボより、四国香川のタコツボのほうが価格が安いので、当地域の一部のタコツボ漁操業者は香川のものを購入している」*2とある。明石の蛸壺はこのころには宇多津産に押され気味だったようだ。
二見では鍋谷産の陶器製蛸壺をそのまま(ゴムくらいは巻いているが)使用するのは少なく、多くは周りをセメントで覆い固めている。
破損の防止と、海底に沈むための重さの確保を兼ねているのだろう。
口の部分が見えなければ陶器製の蛸壺と判断するのは難しい。
蛸壺漁は、長い幹縄(みきなわ)に100個以上の蛸壺を結びつけて海底に沈める漁法である。幹縄の両端には蛸壺の付いた幹縄が浮かないよう錘(おもり)として石などを装着する。
二見では方柱状に固めたセメントの錘を見かけるが、錘の中に宇多津産の陶器製蛸壺が入っているものがある。幹縄の錘とはいえ、海に沈めるのだからマダコが1匹でも多く捕れるよう蛸壺の機能も兼ねてあるとのこと。
セメントでぐるりを覆われ、錘と一体化した陶器製蛸壺は、漁の道具を漁師自身がカスタマイズして使用する好例といえそうだ。