青島の井戸
青島(あおしま 愛媛県大洲市)の港に降り立つと、何十匹ものネコの出迎えを受ける。
ネコを目で追いかけていると、定期船から桟橋を伝ってホースが伸びていることに気づく。
くすんだ灰色のこのホース、直径10cm程度と頼りなさそうに見えるが、島の飲料水を運ぶ重要な役割を担っている。
定期船は人や荷物だけでなく、最大6tの飲料水も運ぶ。
飲料水は定期船からホースで港の貯水槽に送られ、貯水槽からは水道で各家庭へと行きわたる。
(桟橋を伝うホース)
面積0.5km2と決して広くない青島では、他の島嶼部と同じく飲料水の確保に腐心してきた。
1978年(昭和53)、逆浸透脱塩装置が整備され(首藤修史1985)、この機器で海水を淡水化して飲料水としていたが、数年で使用できなくなったらしい。
それまで青島では水は井戸に頼っていた。
共同の井戸がいくつかあり、大きな家では屋敷内にも井戸を設けていたという。
ところが、大半の井戸水は塩分を含んでおり、飲料水として使えるのは「村井戸」のみであった(首藤修史1985)。
愛媛大学の教員を務め、愛媛県内の写真を撮り続けた村上節太郎(※)は1946年(昭和21)に青島の井戸を撮影している(愛媛県歴史文化博物館編2004)。
写真を見ると、井戸は建て込んだ家々の間の開けた空間、その中央にある。
また、2人の大人の女性と1人の少女が釣瓶をそばに立っている。
水を汲むために女性たちが集まっていることから、写真の井戸が「村井戸」と思われる。
写真にわずかに写りこんだ神社の燈籠と、「村井戸」が小学校の下にあったという記述を手がかりに「村井戸」を探し歩くと、青島神社の参道ふもとにある2基の井戸跡にたどりつく。
2基の井戸は大きさに差があり、金網に囲まれた井戸がより大きい。
こちらが人々が共同で利用した「村井戸」で、小さな井戸は屋敷内の井戸だろうか。
(村上が撮影した井戸の跡。「村井戸」か)
(もう一方の井戸の跡。屋敷内の井戸か)
飲料水の供給が現在のようなシステムになる前、 この井戸は貴重な水源であり、水を求める人々が集まり会話を交わすオープンな場でもあったのだろう。
使われなくなった井戸の周りのスペースは井戸端会議の名残のようにも思える。
(青島の集落)
※「明治42年に現在の内子町平岡に生まれた村上節太郎は、昭和32年に愛媛大学教授となり、同35年に「日本柑橘栽培地域の研究」により理学博士の学位を受けるなど、柑橘類研究の第一人者として知られる。また、カメラをこよなく愛し、大正11年に県立大洲中学校に入学、以来平成7年に亡くなるまで、膨大な写真を撮影した。その数はフィルムだけでも推定20万枚、プリントも含めると36万枚にも及ぶ。」(村上節太郎写真1 膨大に残るフィルム )
愛媛県歴史文化博物館編2004『村上節太郎がとらえた昭和愛媛』
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