シーボルトが訪れた与島のドック
幕末に日本に滞在したドイツ人、シーボルトは瀬戸内海の航行途中に与島(よしま 現・坂出市)を訪れた。
著書『日本』には、与島に船を修理するドックがあったと記されている。
「ドクトル・ビュルガーと私は一艘の舟で与島に渡り、塩飽というたいへん好ましい小さな村をみつける。
すべて瓦葺きの家々の立派なたたずまいは、この村が多少とも裕福であることを物語っている。
ここは船を修理するのに大変都合のよいところで、下関と大坂の間ではいちばん地の利をえている。
すなわち6フィートの厚さの花崗岩でできている石垣で海岸の広い場所を海から遮断しているので、潮が満ちている時には非常に大きい船でも特別な入口を通ってはいってくるが、引き潮になるとすっかり水が引いて、船を詳しく観察で検査することができる。
人びとはちょうどたくさんの舟の艤装に従事していた。
そのうち幾艘かの船の周りで藁を燃やし、その火で船をフナクイムシの害から護ろうとしていた。」(斉藤信 訳1978)
当時のドックはどこにあったのだろうか。
「6フィートの厚さの花崗岩でできている石垣」とは、幅約1.8mの花崗岩の防波堤のことだろう。
確認できるもっとも古い1960年の空中写真を見ると、3か所に防波堤がある。
この3か所が候補になる。
(国土地理院 空中写真 1960年撮影)
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3か所のうち、東にある防波堤付近は「タデバ」と呼ばれている。
たで場とは、船底を火であぶり、船のメンテナンスを行うドックを指す言葉で、地名はたで場に由来する。
(タデバ)
周辺で話をうかがうと、確かに以前は防波堤に囲まれた場所がたで場であったという。
満潮時に船が入ってきて砂浜に乗り上げる。
干潮になると船底に丸太を敷き、下から笹を燃やしてフナクイムシを退治し、コールタールを塗るなどしていた。
しかし、それ以前の昭和初期には防波堤の中で魚を養殖しており、それがうまくいかず、たで場に替わったという。
防波堤が養殖の際につくられたのであれば、タデバを幕末のドックとするのは難しい。
残る2か所の防波堤は浦城(うらじょう)と穴部(あなべ)にある。
いずれも江戸時代から続く集落で、シーボルトが「すべて瓦葺きの家々の立派なたたずまい」と評したのは、隣り合う両集落を指すのだろう。
どちらかといえば、神社や大きな寺院のある浦城が当時の中心集落とみられる。
(穴部)
(浦城)
現在の浦城付近は与島港として大きな防波堤が築かれているが、1960年の空中写真では整備前の港の様子がよくわかる。
現在に比べると防波堤に囲まれた面積はかなり狭いが、それでも穴部よりは広い。
シーボルトが訪れたドックは、浦城の古い防波堤に囲まれた場所だったと考えたい。
(浦城の防波堤)
浦城の防波堤を観察すると、少なくとも3回の整備が行われた形跡がある。
最上段はコンクリート、その下は花崗岩の切石で築かれ、最下段は花崗岩の割石による乱積である。
一番下の割石がもっとも古い時期に築かれた防波堤で、切石、コンクリートの順に整備が繰り返されてきたのだろう。
香川県内の防波堤の構築方法からみれば(香川県教育委員会編2005)、割石の乱積は明治以前にさかのぼる可能性もある。
構築時期によっては、シーボルトが訪れたドックの痕跡になるかもしれない。