多度津の蛸壺生産
かつて栗林公園(香川県高松市)で土産物として販売されていた大小の蛸壺。口縁部に黒い麻紐も巻かれている。
いずれも香川県多度津町(たどつちょう)東白方(ひがししらかた)の蛸壺生産者の手によるものだ。
多度津では1990年ころまで蛸壺を生産していた。
もともと宇多津(うたづ 香川県宇多津町)で蛸壺生産に関わっていた人物が多度津に移り住んで(明治末期〜大正期か)生産を続け、最盛期(戦後〜1960年代)には3軒を数えた。
現代的な家屋が建ち並ぶ住宅地の一角に、蛸壺を成形していた作業場の建物が残っている。
(作業場だった建物。左手の空閑地に窯があった)
建物の内部には粘土置き場と、成形作業のスペースがある。
粘土は、宇多津と同じく飯野土(香川県丸亀市吉岡・宇多津町津郷付近で採れる粘土)を使用していた。
土練機で練った粘土を専用の機械を用いて筒状にし、筒状粘土に円板状の底部を貼り付けた。
それを型に入れて電動ロクロで蛸壺の形に成形した。
電動ロクロは戦後に導入したという。
成形された粘土はしばらくの乾燥の後、窯での焼成を経て蛸壺となった。
基本的な生産工程は宇多津産とよく似るが、多度津では釉をかけない点は大きく異なる(宇多津では釉をかけるものもある)。
多度津産は素焼きの蛸壺なのである。
(建物内部には蛸壺成形作業時の痕跡がわずかに残る)
多度津の蛸壺は、高見島(たかみじま)、佐柳島(さなぎじま)、志々島(ししじま)、粟島(あわしま)など多度津に近い島嶼部や兵庫県西部を主な商圏としていた。
イイダコ用の小型の蛸壺は淡路島や香川県東部などに出していたという。
(多度津産の蛸壺)
蛸壺は海岸線のそばで生産されており、漁師は船で直接買い付けに来ていたという。
1965〜67年の埋め立てで周辺が陸地化すると、少し離れた多度津港などで蛸壺の受け渡しをするようになった。
そのころ1軒が廃業し、さらに10年後に1軒が撤退したことで1970年代には、多度津で蛸壺を生産しているのは1軒のみになってしまった。
(中央の道路から左側は1965〜67年の埋め立てで陸地化した。それ以前は道路の右側あたりが海岸線だった)
(多度津港)
最後に残った1軒では、栗林公園の讃岐民芸館からの依頼を受けて土産物としての蛸壺も生産していた。
漁業用のものより高めの温度で焼成し、水が漏れないよう内面に加工を施し、口縁部に麻紐を結ぶ。
手間はかかるが、漁業用の蛸壺に比べて2倍以上の値で卸していたという。
本来の用途ではない土産物としての蛸壺の需要が生じるのは、どういった背景によるのだろうか。