小豆島、旧山吉醤油に建つ石碑

小豆島(しょうどしま)の馬木(うまき)に立派な家と醤油蔵が残されている。

かつて、ここでは山吉醤油(やまきちしょうゆ)の屋号を冠して醤油を生産していた。

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旧山吉醤油の敷地内には2mを優に超える石碑が建つ。

「彰功之碑」と題されたこの石碑には次のようなことが刻まれている(※1)。 

山本吉左衛門は 宝暦7年(1757)、馬木村で吉兵衛の第2子として生まれた。情が深く誠実で賢く、醤油に対する志を抱き続けていた。仕事に励んで醤油業をなし、文政の初めには山吉と名乗って近畿地方で商売した。そして、吉左衛門の説得で醤油業に携わる村人は増加、小豆島の醤油の品質も向上して富を得た。さらに曾孫にあたる国蔵と玄孫、時蔵の代に機械を導入してますます盛んになった。吉左衛門の徳や功をたたえるため、同業者で石碑を建てた。

 

なお、碑の漢文と書は小豆島出身の書家、炭山蘆洲(すみやまろしゅう ※2)による。

蘆洲は昭和6年(1931)の春に漢文と書を完成させたとある。

裏面には発起者の名があり、馬木が属していた苗羽村(のうまむら 現香川県小豆島町)の村長以下、馬木の醤油蔵を代表する面々が名を連ねている。

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つまり、昭和の初めに、馬木の醤油業に携わる主な人物や苗羽村長が、山本家の祖、吉左衛門をたたえる石碑を建てたのである。

ではなぜ、この時期に村長までが関与して石碑を建てたのだろうか。

 

次のグラフは大正4年の小豆島の町村別醤油生産量である。

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(1921年発行の『小豆郡誌』掲載データをもとに作成)

 

このグラフを見ると苗羽村の生産量が抜けていることがわかる。

大正4年と昭和6年では16年の隔たりがあるものの、町村間の生産量の差に大きな違いはないだろう。

 

昭和初期、醤油は量、金額ともに小豆島の主要生産物の最上位を占めていた(三木常吉編1936)。

その醤油生産のうち、最も多くを担っていたのが苗羽村だった。

こういった状況のなか、地域の醤油業を興した山本吉左衛門の業績を再評価する動きが起こっても不思議ではない。

そこに村長までがかかわるのは、村全体として吉左衛門への感謝の意があったと考えたい。

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※1 碑文

(表面)

彰功之碑 

内度其才外察時勢難険窮乏不敢以挫疲備轉倒不肯以癈遂成其志者俊邁剛毅之

又能之也山本家曩祖吉左衛門即其人歟吉左衛門者吉兵衛第二子寳暦七丁丑歳

生于馬木邑為人篤實穎悟夙志殖産以醸業拮据経営擴張循序以興其家文政

之初山吉號標以販鬻於畿甸且勸説郷邑以斬業之利於是邑人従事醸醤者逐歳加

多一号為富而小豆島之醤遂為四方美味焉曾孫国蔵玄孫時蔵能世其業加説機工

愈致隆盛矣古云大上立德其次立功蓋吉左衛門之謂乎頃者同業者胥議建碑以不

朽之徹予文予固不文而郷黨之美不可汲也乃銘曰

醞醸興家維謀維宛ヵ遭窮益堅四方茲售

以授児孫貽謀有佑以誘郷隣殖産乃厚

豆島之醤神懸之楓品高海内聲望尤隆

不忘不朽勒石彰功偉戴ヵ斯人餘深無窮 

昭和六年辛未春陽 盧州炭山髙撰書

 

(裏面)

発起者

苗羽村長 勲六等 藤井勝太

坂下助三

石井岩吉

塩田亀吉

藤井庄春

小汐亀太郎

分家 山本円蔵

五代目戸主 山本時蔵

 

※2 炭山蘆洲は慶応3年(1867)、香川県小豆郡安田村(現小豆島町)生まれ。渡辺沙鷗、三重五江、森万城に師事し、『墨滴拾彙』、『改定草書淵海』などを著した。日本書芸院初代理事長などを務めた書道家炭山南木(なんぼく)の父(荒木 矩編1975)。

 

荒木 矩編1975『大日本書畫名家大鑑』

三木常吉編1936『小豆郡誌 第1続編』


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