高見島の除虫菊栽培 1
「あたかも白雪に覆われたようになり、その景色は実に見事なものであった」
『多度津町史』では除虫菊の花で満開の高見島(たかみじま)をこう表現している。
白い花を咲かせる除虫菊は明治元年(1968~69)に日本に持ち込まれ、殺虫剤や蚊取り線香の原料として栽培された。
1930年代半ばには世界第1位の生産量となり、その9割は輸出され、重要な輸出品目となっていた。
北海道や和歌山県のほか、瀬戸内海沿岸が主な産地だった(星川清親1985)。
香川県では20世紀に入ってから栽培が始まり、その中心は島嶼部や沿岸部だった。
斜面地が多く水が不足しがちな島嶼部では、成長に水をあまり必要としない除虫菊は栽培に適していたのだろう。
写真は1950~60年代とみられる高見島の風景である。
高見島は平地が少なく、大半を標高304mの龍王山(りゅうおうざん)山頂から続く斜面地で占められる。
傾斜が厳しいためか、集落があるのは、ふもと近くに限られる。
写真の当時は、集落のすぐ上から山頂まで除虫菊の段々畑が連なっていた。
開墾によって木々もまばらで、花越しに周辺の島々を望めたことだろう。
高見島では男性の多くが漁業に携わっていたため、除虫菊栽培は主に女性の仕事だった。
女性たちは5月になると畑で開花した除虫菊の茎を刈った。
必要なのは花の部分(頭花)だけだが、それを1本ずつ摘むのは効率的ではない。
そのため、茎ごと刈って束にして、専用の道具を用いてまとめて花の部分だけを摘み取った。
その花を、ふご(藁で編んだ容器)などに入れて山からふもとへ運び、平らな場所に筵(むしろ)を敷いてその上に花を広げて乾燥させた。
墓地のそばまで筵が及んでいたというから、シーズンになると生活域以外は乾燥待ちの花で埋め尽くされていたことだろう。
しばらく経って花が乾燥すると、その花を大きな袋に入れて、近隣の真鍋島(まなべしま)などから買い付けに来た業者に渡していたという。
高見島の除虫菊栽培 2へ続く
星川清親 1985「ジョチュウギク」『大百科事典』平凡社
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