男木島の牛飼い

男木島(おぎじま)には、かつて牛舎として使用された建物が残っている。

現在、島で牛を見かけることはできないが―

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 (牛舎として使われていた建物)

 

戦後間もない頃のこと。

男木島の子どもたちは、朝、家にいる牛を牧場に連れて行った。

牧場での餌は子どもたちが刈った草である。

面積約1.4平方kmの小さな島では、餌としての草は足りないくらいだった。  

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 (牧場の跡)

 

夕方、子どもたちは牛を追い、それぞれの家に連れて帰った。

家では子どもたちが南瓜を切り、さらに芋や麦を混ぜて炊き、味噌を加えたものを牛に食べさせた。

 

男木島では「牛飼い」と言ってほとんどの家で牛を飼っていた。

それぞれの家に牛舎があり、牛舎には牛の寝床として天日干しにしたモバ(藻)が敷き詰められていた。

モバは定期的に取り替えられ、使用されたものは畑の肥料になった。

牛舎のモバを取り替えるのが子どもたちの仕事であった。

 

牛は春秋の農繁期にそれぞれ半月程度、島から外に出た。

その時期になると「牛船(うしぶね)」と呼ばれる専用の船が牛を迎えに来た。

牛はその船で高松方面へと運ばれ、その先で農作業に使われた。

その期間が終わると牛は島に戻ってくるが、その時には痩せこけた姿になっていたというから、貸し先での使われた方は容易に想像がつく。

前回の重労働を覚えていたためか、牛船を目にし、乗船を嫌がる牛もいた。

 

牛が戻ってくる船には、牛の貸し賃として春には小麦、秋には米が載せられていた。

 

農作業のために牛を貸し出すこの風習(借耕牛〔かりこうし〕とも呼ばれる)は、平地が少なく米作りの困難な男木島の人たちが米を手に入れることのできる限られた手段であり、それを支えていたのは子どもたちが担った日常的な牛の世話であった。  

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牛飼いを一部変更のうえ掲載。


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喜兵衛島の製塩

砂浜を歩くと薄いビスケットのようなかけらが目に入る。

直島(なおしま)諸島の無人島、喜兵衛島(きへいじま)の浜に落ちているのは6〜7世紀(古墳〜飛鳥時代)の製塩土器の破片だ。

塩土器とは塩づくりに使う土器のこと。

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西日本では紀元前1世紀(弥生時代)に土器を使った塩づくりが始まり、10世紀ころ(平安時代)まで続けられた。

その手順は次のとおり。

 

まず、塩分の付着した海藻を天日で乾燥させ、焼いて灰にする。

その灰に海水を注ぎ、布でこすと濃度の高い海水になる。

濃くなった海水を小さなコップのような製塩土器に入れて、火にかける。

土器の中の海水が煮つまって水分がなくなると、上から海水を足してさらに煮つめる。

この作業を何度か繰り返すと、土器の底に白い塩の結晶ができあがる。

塩分をふくんでもろくなった製塩土器は再利用できないため浜に捨てられる。

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(土器を使った弥生時代の製塩 画:Kさん)

 

喜兵衛島の浜に残るおびただしい量の製塩土器の破片は、塩を取り出した後に廃棄されたものだ。

そして、6~7世紀に行われていた大々的な塩づくりの証拠でもある。

 

当時、製塩が行われていたのは天候に恵まれた春から秋にかけてだろう。

また、この島で作業にあたっていたのは10~20人程度とみられる。

面積0.2平方キロメートルと必ずしも広くないうえに、浜と山しかない喜兵衛島でこの人たちが日常生活を営んでいたとは考えにくい。

近くの児島(こじま ※)や直島などに生活拠点があり、そこから作業のたびに訪れていたのかもしれない。

 

喜兵衛島は今でこそ静かな無人島だが、浜に人々が集まり、塩づくりに明け暮れた時代もある。

この島ではシーズンになると日々、煙が立ちのぼる製塩の風景が見られたことだろう。 

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※埋め立て以前の島としての児島。現在の岡山県倉敷市・玉野市の一部。

岩本正二・大久保徹也 2007『備讃瀬戸の土器製塩』吉備人出版

近藤義郎編 1999『喜兵衛島―師楽式土器製塩遺跡群の研究―』 『喜兵衛島』刊行会


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シーボルトが見た蛸壺漁

1826年、瀬戸内海を航行したシーボルトは日比(ひび)で見た漁法に興味を覚えた。

著書『日本』には次のように記されている。

 

「海岸でわれわれは、イカを捕る巧妙な技法をみた。

漁師は長いワラ縄にバイ貝の一種の大きな貝を並べてつけ、これを海中に入れる。

イカ類、ここでは八足類の一種(日本語のタコ)は、こうした貝の家を捜しあるき、本能的にその中にはいる。

縄を引き上げると、その動きにつれて、避難所と思い込んでますますしっかりと巣に入り込んでしまって、捕まってしまう。」(斉藤信訳1978)

 

「バイ貝の一種の大きな貝」はアカニシなどの巻貝の殻を指しているのだろう。

この貝殻を、縄にいくつも取り付けて海に沈める。

アカニシ殻に入るのはイイダコである。イイダコは体長が20cm程度とマダコに比べてかなり小さく、産卵期のメスは胴部に飯粒のような卵をもつ。

アカニシ殻を海の中から引き上げて、殻の中に入っているイイダコを捕る。

すなわち貝殻は蛸壺であり、シーボルトの目に留まったのはイイダコを捕る蛸壺漁だったと思われる。

 

なお、1799年刊行の図鑑『日本山海名産図会』に描かれたイイダコ漁の場面でも、アカニシのような大きな巻貝の殻を使っている。

一方、タコ(マダコか)漁の蛸壺はやきものとして描かれている。少なくとも江戸時代後期の瀬戸内東部では、貝殻の蛸壺でイイダコを捕るのが一般的だったようだ。

 

岡山・香川両県にまたがる備讃瀬戸では江戸時代以降もイイダコを捕っている。

ただ、蛸壺による漁は減少し、蛸壺漁であっても貝殻に代わってプラスチックややきもの、空き缶などを用いる場合も少なくない。

イイダコ漁の方法や道具が変化するなか、ロープに結び付けられた大量のアカニシ殻を見かける島がある。

高見島(たかみじま)だ。

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この島では今でもシーボルトが見たような漁法でイイダコを捕っている。

 

斉藤信 訳 1978「1826年の江戸参府紀行(1)」『シーボルト『日本』』雄松堂書店

ひょうご歴史の道 〜江戸時代の旅と名所〜 (『日本山海名産図会』のイイダコ漁の図)

loopto x setouchi-kurashi » 1000年前の忘れ物 (小豆島で行われていた蛸壺によるイイダコ漁) 


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