高見島の除虫菊栽培 2

前回の記事 高見島の除虫菊栽培1

 

高見島(たかみじま)の段々畑に広がっていた除虫菊の白い花。その生産量はどれほどだったのか。

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(除虫菊の花が咲く高見島 1950~60年代)

 

次のグラフは1954年(昭和29)の香川県における市町村別の収穫量を表している。f:id:norimatsu4:20130824233356j:plain

(『昭和31年版 香川県統計年鑑』から作成、橙-広島・手島・小手島、緑-小豆島の自治体)

この年、市町村単位では高見島村が最大の収穫量をあげていた。

高見島村は高見島だけの自治体のため、この3,500tという数字は高見島での収穫量とみていい。

複数の自治体で構成される小豆島(しょうどしま)は、それぞれを足せば6,660tとなるが、高見島の面積2.3平方kmに対して小豆島のそれは153.3平方kmと、面積の差が著しい。 

 

1平方kmあたりの収穫量に換算すると、高見島1521t/平方km、小豆島43t/平方kmとなり、小面積の高見島でかなりの量の除虫菊を生産していたことがわかる。

当時、高見島では一面が除虫菊畑だったのだろう。

 

これほど盛んだった除虫菊の栽培だが、今の高見島ではほとんど目にすることはできない。いつごろまで生産されていたのだろうか。

次のグラフは香川県と、高見島が含まれる仲多度(なかたど)郡の作付面積推移を示している(※1)。

1960年(昭和35)以降については、仲多度郡の作付面積のうち高見島が一定量を占めているとみていいだろう(※2)。

f:id:norimatsu4:20130824173610j:plain(『香川県統計資料』から作成)

 

戦時中の1943年(昭和18)に香川県全体で451町(ha)あった除虫菊の栽培面積だが、戦後になって激減した。

1948年段階で除虫菊は輸出品として有望との認識があったらしく(※3)、それから生産量の回復に努めたのだろう。

香川県の作付面積は1970年まで右肩上がりの推移となっている。

 

仲多度郡も1954年から作付を増加させるが、ピークは1965年で香川県全体よりも早く下降が始まる。

高見島ではこのころに除虫菊ではない花卉(かき)の栽培が始まり、作物の転換がグラフの下降線に現れているのかもしれない。

しかし、その花卉栽培も今ではほとんど行われていない。

 

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(山頂付近に残る除虫菊畑の跡)

 

「白雪に覆われたよう」と例えられた風景は、今から40年ほど前までしか見られなかったのだろう。

今は生い茂った木々の根本にかろうじて除虫菊畑の痕跡が残るのみである。

 

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※1 高見島村は1956(昭和31)年に仲多度郡多度津町(たどつちょう)と合併し、以後の統計資料には郡市単位でしか数値が表記されていないため、仲多度郡でグラフを作成した。

※2 1954年で収穫量が記録された仲多度郡の自治体は高見島村と広島(ひろしま)村のみである。広島村は1956年(昭和33)に丸亀市に合併され、それ以降は仲多度郡から外れる。

※3 昭和25年発行の『香川県統計年鑑』には除虫菊について次のように記されている。「戦前海外に相当量輸出されていた除虫菊も終戦後化学薬品の進出により急激に衰微しその前途に一抹の不安をあたえたが、その後諸外国の需要増加により輸出品として稍々有望となって来つつある。供給面に於ける本県の状況は昔年北海道、広島、岡山、愛媛と共に全国屈指の生産県として知られ(略)ていたが、終戦と共にその生産が激減し昭和22年には最低に達した。其の後稍々回復し(略)今後貿易の好転に伴うこの方面の振興に期して待つべきものがある。」 

 


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高見島の除虫菊栽培 1

「あたかも白雪に覆われたようになり、その景色は実に見事なものであった」

多度津町史』では除虫菊の花で満開の高見島(たかみじま)をこう表現している。

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白い花を咲かせる除虫菊は明治元年(1968~69)に日本に持ち込まれ、殺虫剤や蚊取り線香の原料として栽培された。

1930年代半ばには世界第1位の生産量となり、その9割は輸出され、重要な輸出品目となっていた。

北海道や和歌山県のほか、瀬戸内海沿岸が主な産地だった(星川清親1985)。

 

香川県では20世紀に入ってから栽培が始まり、その中心は島嶼部や沿岸部だった。

斜面地が多く水が不足しがちな島嶼部では、成長に水をあまり必要としない除虫菊は栽培に適していたのだろう。

 

写真は1950~60年代とみられる高見島の風景である。

高見島は平地が少なく、大半を標高304mの龍王山(りゅうおうざん)山頂から続く斜面地で占められる。

傾斜が厳しいためか、集落があるのは、ふもと近くに限られる。

 

写真の当時は、集落のすぐ上から山頂まで除虫菊の段々畑が連なっていた。

開墾によって木々もまばらで、花越しに周辺の島々を望めたことだろう。

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高見島では男性の多くが漁業に携わっていたため、除虫菊栽培は主に女性の仕事だった。

 

女性たちは5月になると畑で開花した除虫菊の茎を刈った。

必要なのは花の部分(頭花)だけだが、それを1本ずつ摘むのは効率的ではない。

そのため、茎ごと刈って束にして、専用の道具を用いてまとめて花の部分だけを摘み取った。

その花を、ふご(藁で編んだ容器)などに入れて山からふもとへ運び、平らな場所に筵(むしろ)を敷いてその上に花を広げて乾燥させた。

墓地のそばまで筵が及んでいたというから、シーズンになると生活域以外は乾燥待ちの花で埋め尽くされていたことだろう。

しばらく経って花が乾燥すると、その花を大きな袋に入れて、近隣の真鍋島(まなべしま)などから買い付けに来た業者に渡していたという。

 

 高見島の除虫菊栽培 2へ続く

  

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多度津町史編集委員会編 1990『多度津町史』

星川清親 1985「ジョチュウギク」『大百科事典』平凡社

 


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女木島の大祭りと直島、男木島

掛け声とともに独特のリズムで太鼓を叩く4人の子ども。

太鼓乗りと呼ばれる子どもたちは、それぞれ赤い投頭巾(なげずきん)を被り、色とりどりの襷を長く垂らしている。

太鼓乗りが腰かける櫓は、長いかき棒を担ぐ20~30人の男性に支えられる。

f:id:norimatsu4:20070805090509j:plain女木島の大祭り 2007年)

 

この太鼓台(たいこだい)は、2年に一度、真夏に行われる女木島(めぎじま)の大祭りで登場する。

朝、島の集落のはずれの小高い場所にある住吉神社を出た太鼓台は、時間をかけて島内を巡る。

その途中で、横転する、また水平方向に旋回するなど激しく練り、浜から海の中へと入る。

沖からは太鼓乗りが叩き続ける太鼓の音と掛け声が響く。

しばらくすると太鼓台は海から上がり、また島内を回って神社へと向かう。

太鼓台が神社で練って神事が終わるころには、すでに薄暗くなりつつある。

f:id:norimatsu4:20070805160410j:plain(激しく練る太鼓台 2007年)

f:id:norimatsu4:20070805162122j:plain(海に入る太鼓台 2007年)

 

さて、この投頭巾に長い襷といった太鼓台の太鼓乗り(乗り子)の衣装は、小豆島(しょうどしま)の一部や豊島(てしま)など、香川県では島嶼部の祭りで特徴的に見られる要素だ(乗松真也 2008)。 

 

乗り子の衣装に加えて、太鼓のある櫓が屋根をもたないシンプルな太鼓台は、直島(なおしま)のそれとよく似ている(田井静明 2008)。

太鼓台が旋回したり、スピードを上げて走ったりする激しい練りも共通する。

f:id:norimatsu4:20071021140259j:plain(直島、本村の太鼓台 2007年)

 

さらに、女木島の大祭りと直島本村(ほんむら)の秋祭りでは、前日の夜に屋台(やたい)が出る。

両島の屋台は木枠を組んで飾り付けをしただけのもので、中で子ども(大人がいる場合も)が鉦などを用いてはやす。

f:id:norimatsu4:20070804214831j:plain女木島の屋台 2007年)

f:id:norimatsu4:20081018185113j:plain(直島、本村の屋台 2008年)

 

また、女木島と異なる年の夏に行われる男木島(おぎじま)の大祭りには、太鼓台こそないものの、屋台が登場する。

この屋台も、木の骨組みに簡易な屋根をもち、中には囃子方がいるという、女木島や直島とほぼ同じスタイルだ。

f:id:norimatsu4:20080803091146j:plain(男木島の屋台 2008年)

 

つまり、女木島と直島はよく似た太鼓台をもち、簡素な構造の屋台は男木島を加えた3島に共通するのである。

 

直島、女木島、男木島は「直島三か島」(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編 1985)として、江戸時代の大半は幕府領だった(※1)。

女木島、直島両島の太鼓台の類似の背景として、暗に江戸時代における同一管理が指摘されてきたように(田井静明 2008)、3島の祭りには「直島三か島」の名残が表れているのかもしれない。

 

※1 直島と女木・男木島は、明治期以降は別の行政単位として歩んできた。現在、直島は香川県直島町女木島・男木島は香川県高松市である。

 

「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編 1985『角川日本地名大辞典 37 香川県』

田井静明 2008「香川県の太鼓台・ダンジリの多様性」『香川県の祭り・行事―香川県祭り・行事調査報告書―』

乗松真也 2008「香川県島嶼部にみられる祭り・行事の様相」『香川県の祭り・行事―香川県祭り・行事調査報告書―』

島の神様に捧げるお祭り「女木島 住吉神社大祭」 2011年の大祭りのレポート

Megijima Matsuri - August 4th 2013 2013年の大祭りのレポート(英語)

 


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小豆島、坂手の龍とイワシ漁

小豆島(しょうどしま)の洞雲山(どううんざん)に岩場を削ってつくられた階段がある。

大人一人が歩ける程度の幅しかない階段を登ると、岩の割れ目に置かれた小さな社が見えてくる。

ここに祀られているのが八大龍王だ。

八大龍王とは釈迦の説法を聞いた8体の龍王を指すが、信仰対象としては龍や龍神信仰の一形態ととらえられる場合が多い。

 

ここになぜ、龍が祀られているのか。

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(洞雲山に祀られている八大龍王)
 
洞雲山のふもとにある坂手(さかて)は、海に面した緩い斜面にある。
この集落は江戸時代以降、漁業とともに歩んできた。
海に囲まれた小豆島は比較的漁業の盛んな地域だが、坂手は、特に大正期に小豆島でもっとも漁獲高をあげていた。
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(1921年発行の『小豆郡誌』掲載データをもとに作成)
 
大正から昭和前半期にかけて、坂手では鰯網(いわしあみ)をいくつももち(昭和初期には6~7帖)イワシ漁を行っていた。
上記グラフにおける坂手の漁獲高はイワシによるところが大きいとみられる。
 
集落の少し上に坂手湾を見下ろすことのできる高台がある。
かつては、この高台にやぐらを組み、朝と夕方にやぐらの上から湾を見張った。
イワシの魚群が湾内に入ってくると、ほら貝を吹いて集落中に知らせた。
その合図があると畑仕事などの手を止めて、男性はわれ先にと船に乗り込んだ。
イワシ漁が早いもの勝ちだったからである。
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(やぐらを組み、魚群を見張った高台からの眺め) 
 
男性たちが乗り込んだ船は、2隻で網の両端をひいて張り、網で魚群を取り囲んだ。
魚群を包囲できると、網を張ったまま陸地まで戻り、網の両端を陸地にあるロクロに結び付けた。
船に乗れない若い少年などがロクロを回して網を巻き上げ、網の中央に設けられたポケットのような箇所にイワシを追い込んだ。
そしてそのポケットに入ったイワシを獲って陸地にあげた。
陸上では獲ったイワシをすぐに煮沸し、海岸際に広げたムシロの上で干してイリコ(煮干し)に加工した。
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(昭和27年〔1952〕製造のイワシ漁の船 愛媛県伊予市
 
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(明治初期の愛媛・香川県〔※1〕のイワシ漁 右上に高台から合図を送る人がいる 「漁業旧慣調」〔愛媛県立図書館蔵〕)
 
このイワシ漁に携わっていた人たちが洞雲山の八大竜王を祀っていたという。
龍は海や水と結びついており、坂手では海を生業の場とする漁師の信仰を集めたのだろう。
 
この八大龍王がいつから祀られているのかはわからない。
明治~大正期の社寺を集めた記録に登場しないことからすると、昭和初期あたりに勧請(別の神社から分霊して移してくること)してきた可能性がある。
当時の坂手を支えていたイワシ漁の関係者が勧請にかかわったのだろうか。
 
なお、坂手湾で行われたイワシ漁も昭和30年代を境に見られなくなった。
船の動力の機械化が進み、沖合での漁が主となったため、湾内でイワシ漁をすることがなくなったのである。
 
現在、八大龍王が坂手の漁師の信仰を集めていたことはほとんど知られていない。
イワシ漁の衰退が背景にあるのかもしれない。
 
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(洞雲山から見る坂手) 

f:id:norimatsu4:20130803144749j:plain(坂手港の建物に描かれた洞雲山と龍)

 
※1 「漁業旧慣調」は明治8~11年(1875~1878)の愛媛県の漁業を調査したもの。香川県は明治9~ 21年まで愛媛県に編入されていたため、この資料は現在の愛媛・香川両県を対象としている。
 


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男木島の舞台と公民館

男木島(おぎじま)の港に降り立ち、前方やや左手に少し歩いたところに白い壁の南北に長い建物があった。

外から島を訪れた人の多くはこの建物に関心が向かうようだった―

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(白い壁の建物 2009年)

 

この建物は、もともとは公民館として利用されていた。

内部の天井は高く、西側にステージが設けられ、その反対側の上方には映写機用の窓もあった。

島の人たちは、ここで観劇をし、映画も楽しんだ。

また、小学校に体育館ができる前には運動を行う場所としても使われた。

 

公民館が建つ前には「舞台」と呼ばれる屋根をもつステージがあった。

ここでは、毎年夏に島外から役者が来て、夜に芝居が上演された。

当日、島の人は日中から弁当をつくり、子どもたちは夜眠くならないように昼寝をさせられた。

 

観客席は外にあり、島内の組ごとにくじ引きで席を決めた。

ステージに向かって中央縦のラインが最もよい席で、その左のラインが二番目、中央ラインを挟んで反対側が三番目、という具合だった。

 

芝居は夕暮れから始まり夜中まで行われた。

当時は現在のような堤防もなく、舞台のそばまで海が迫り、芝居の終了が満潮時に重なると、観劇を終えた人たちは波打ち際を歩いて家路に着いた。

 

島の若者が歌舞伎などを演じることもあった。

なかには、役の指導にあたっていた人の目に留まった子どももいた。

その子どもは、島外での泊まり込みの稽古に励み、そこでの舞台に出演したという。

  

白い壁の建物が多くの人を惹きつけていたのは、この場に島の人たちのさまざまな思い出が詰まっていたからだろうか。

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(中央やや左にあるのが白い壁の建物 2007年)

 


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江戸時代に賞賛された小豆島、隼山からの眺め

 「山水の美観言語に絶せり。されば当山の勝地なることは、遠近に聞へて其名高し。」

江戸末期に編まれた「小豆島名所図会(しょうどしまめいしょずえ)」に、言葉で言い表せないほど美しく有名、と解説されている隼山(はやぶさやま)からの眺め。

解説文のそばに描かれた絵は現在の景観と瓜二つだ。

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 f:id:norimatsu4:20130526231219j:plain(上:現在の隼山からの眺め 下:「小豆島名所図会」に描かれた江戸末期の眺め)

 

「小豆島名所図会」には海を望む景観をパノラマのように描いている箇所がいくつかある。それぞれの場所とその説明文を記してみよう。

・隼山―山水の美観言語に絶せり。されば当山の勝地なることは、遠近に聞へて其名高し。

・風穴権現社―景勝絶景にして美観なり。

・大麻山清滝寺―(景観にかんする説明文はない)

・花陰亭―風景殊に絶勝なり。

・海雲寺―海上の眺望奇観。

・松濤庵―海上の眺望勝景なり。

景観の表現を比べると、隼山からの眺めは小豆島内でも評価の高い部類に入ると言えるだろう。

 

また、天保10年(1839)、地元の坂手(さかて)の住人3名が隼山に桜を植えた(「坂手村志稿」※1)。

「小豆島名所図会」には「殊更晩春の頃は、階下の桜花爛漫たる光景また類なし。」とあり、隼山は眺望とともに桜の名所でもあった(※2)。

 

ところが、これほどの評価を受けたにもかかわらず、隼山の眺望はその後さほど関心を払われていない。

たとえば、昭和初期に建てられた「讃岐十景(※3)」の石碑は隼山から山道を数百m北へ行った場所にあり、碑には「坂手洞雲山(どううんざん)」とある。

洞雲山には同時期に大阪旅行クラブ(※4)が建てた石碑もあり、昭和初期には隼山よりも隣接する洞雲山が重視され、観光地として認識されていたようだ。

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隼山と洞雲山の関係には、名所や観光地に対する意識の変化があらわれているのだろう。

ただ、江戸時代に賞賛された景観が現在でも変わらないのであれば、隼山からの眺めは今一度見直されてもいいように思う。

  

※1 坂手村(現香川県小豆島町)の沿革や地理、産業などをまとめたもの。刊行はされていない。明治45年(1912)までのデータを掲載しているため、最終編集はその数年後か。

※2 さらに明治45年(1912)には苗羽村(のうまむら 現香川県小豆島町)の木下忠次郎が2,000本の桜を植樹、戦後しばらくまで隼山は花見の場でもあったらしい。ただ、現在残っている桜は多くなさそうだ。

※3 昭和2年(1927)、香川新報(四国新聞の前身)紙上で投票によって選ばれた香川県内10の観光地。選地には石碑が建てられている。新さぬき百景 - Wikipedia

※4 昭和初期にあった大阪を中心とした旅行組織か。各地に石碑を建てている。

 


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小豆島、旧山吉醤油に建つ石碑

小豆島(しょうどしま)の馬木(うまき)に立派な家と醤油蔵が残されている。

かつて、ここでは山吉醤油(やまきちしょうゆ)の屋号を冠して醤油を生産していた。

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旧山吉醤油の敷地内には2mを優に超える石碑が建つ。

「彰功之碑」と題されたこの石碑には次のようなことが刻まれている(※1)。 

山本吉左衛門は 宝暦7年(1757)、馬木村で吉兵衛の第2子として生まれた。情が深く誠実で賢く、醤油に対する志を抱き続けていた。仕事に励んで醤油業をなし、文政の初めには山吉と名乗って近畿地方で商売した。そして、吉左衛門の説得で醤油業に携わる村人は増加、小豆島の醤油の品質も向上して富を得た。さらに曾孫にあたる国蔵と玄孫、時蔵の代に機械を導入してますます盛んになった。吉左衛門の徳や功をたたえるため、同業者で石碑を建てた。

 

なお、碑の漢文と書は小豆島出身の書家、炭山蘆洲(すみやまろしゅう ※2)による。

蘆洲は昭和6年(1931)の春に漢文と書を完成させたとある。

裏面には発起者の名があり、馬木が属していた苗羽村(のうまむら 現香川県小豆島町)の村長以下、馬木の醤油蔵を代表する面々が名を連ねている。

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つまり、昭和の初めに、馬木の醤油業に携わる主な人物や苗羽村長が、山本家の祖、吉左衛門をたたえる石碑を建てたのである。

ではなぜ、この時期に村長までが関与して石碑を建てたのだろうか。

 

次のグラフは大正4年の小豆島の町村別醤油生産量である。

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(1921年発行の『小豆郡誌』掲載データをもとに作成)

 

このグラフを見ると苗羽村の生産量が抜けていることがわかる。

大正4年と昭和6年では16年の隔たりがあるものの、町村間の生産量の差に大きな違いはないだろう。

 

昭和初期、醤油は量、金額ともに小豆島の主要生産物の最上位を占めていた(三木常吉編1936)。

その醤油生産のうち、最も多くを担っていたのが苗羽村だった。

こういった状況のなか、地域の醤油業を興した山本吉左衛門の業績を再評価する動きが起こっても不思議ではない。

そこに村長までがかかわるのは、村全体として吉左衛門への感謝の意があったと考えたい。

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※1 碑文

(表面)

彰功之碑 

内度其才外察時勢難険窮乏不敢以挫疲備轉倒不肯以癈遂成其志者俊邁剛毅之

又能之也山本家曩祖吉左衛門即其人歟吉左衛門者吉兵衛第二子寳暦七丁丑歳

生于馬木邑為人篤實穎悟夙志殖産以醸業拮据経営擴張循序以興其家文政

之初山吉號標以販鬻於畿甸且勸説郷邑以斬業之利於是邑人従事醸醤者逐歳加

多一号為富而小豆島之醤遂為四方美味焉曾孫国蔵玄孫時蔵能世其業加説機工

愈致隆盛矣古云大上立德其次立功蓋吉左衛門之謂乎頃者同業者胥議建碑以不

朽之徹予文予固不文而郷黨之美不可汲也乃銘曰

醞醸興家維謀維宛ヵ遭窮益堅四方茲售

以授児孫貽謀有佑以誘郷隣殖産乃厚

豆島之醤神懸之楓品高海内聲望尤隆

不忘不朽勒石彰功偉戴ヵ斯人餘深無窮 

昭和六年辛未春陽 盧州炭山髙撰書

 

(裏面)

発起者

苗羽村長 勲六等 藤井勝太

坂下助三

石井岩吉

塩田亀吉

藤井庄春

小汐亀太郎

分家 山本円蔵

五代目戸主 山本時蔵

 

※2 炭山蘆洲は慶応3年(1867)、香川県小豆郡安田村(現小豆島町)生まれ。渡辺沙鷗、三重五江、森万城に師事し、『墨滴拾彙』、『改定草書淵海』などを著した。日本書芸院初代理事長などを務めた書道家炭山南木(なんぼく)の父(荒木 矩編1975)。

 

荒木 矩編1975『大日本書畫名家大鑑』

三木常吉編1936『小豆郡誌 第1続編』


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