安芸津の蛸壺生産
道路沿いに突如現れるレンガ積の構造物。ドーム状の天井をもつ部屋が階段状に10房連結し、側面には太い鉄管が通る。下から上まで20mはあるだろうか。
安芸津(あきつ 広島県東広島市)に所在するこの構造物は福原製陶の登り窯である。福原製陶は一度に6,000個入るというこの窯で蛸壺を焼いていた。
レンガは福原製陶製、組み上げたのも福原製陶、窯の修繕も福原製陶で行っていたという。内部の温度を1,300度に上げるために当初は薪を焚いていたが、昭和半ばから重油を燃料とした。太い鉄管は備蓄タンクから重油を運ぶためのものだ。
(木が生えている場所には煙突があった)
(鉄管を重油が通る)
(重油を備蓄するタンク)
(神棚が置かれた焚口)
3代目の福原さんによれば福原製陶の蛸壺生産は大正期に始まったという。そのころ、近隣に蛸壺を生産しているところが数か所あり、福原さんの祖父がそこで修行を終えて現在地に工房を設けた。
安芸津では「赤土」と呼ばれる粘土を採取することができる。この粘土を利用して、明治期以降、安芸津では蛸壺のほかに土管や瓦などのやきものを生産していた。
福原製陶でも保有している山から工房に粘土を運び、蛸壺の原料とした。その粘土をロクロを使って成形し、外面にのみハケで釉(うわぐすり)を塗って窯詰めした。
1980年ころ、成形に外型を導入したが、それ以前は型を使っていない。そのため、福原製陶の蛸壺の外面にはロクロ引きの跡が微妙な段差として残る。
(福原さんと福原製陶の蛸壺)
福原製陶の最盛期は1955年ころで、年間30万個を生産していた。
その当時、下蒲刈島・倉橋島(広島県呉市)、江田島(広島県江田島市)、三原(広島県三原市)、二神島・中島(愛媛県松山市)、大三島(愛媛県今治市)など芸予諸島周辺を中心に卸していた。熊本県や五島列島(長崎県)にまで運んだこともあった。
三原では鍋谷産の蛸壺と競合した。三原の漁師に内外面に釉薬のかかった鍋谷産を見せられ、「外側にも内側にも釉をかけてくれ」と言われたこともあったという。そもそも、鍋谷産蛸壺の釉の出発点は、それまで安芸津産を使っていた津和地島(愛媛県松山市)の漁師が鍋谷で釉のかかった蛸壺を注文したことにある。釉のかけ方の要求が、回り回って原因となった福原さんのもとに来たのは興味深い。
(プラスチック製と併用される福原製陶の陶器製蛸壺)
参考文献
広島県教育委員会編 1994『広島県の諸職―広島県諸職関係民俗文化財調査報告書―』